回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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生かされているいのち
「何のため」
答えは人それぞれでしょうが、「これ」と決めると、それが叶わなかった時、あるいは失われた時、生きる意味は消えさり、人は絶望してしまいますね。
それでも、みんなそれぞれに「これのため」かなあとおぼろげながらに感じながら生きていく。それは時に喜びや、生きがいとなるでしょうが、多くの場合は思い通りにいかない苦しさやむなしさを伴うものとなっているのではないでしょうか。
死に臨んで「私の人生これでよかったのかなあ」「人生とはこんなもんだったのだなあ」となりかねません。
これはどこからくるかというと「何か」のために「私が」私の力で「生きている」という視点からくるものです。
私が自分の力で生きてるんだったら何のためかも自分で選べるはずです。決めれるはずです。
しかし、実際はどうか。どうもわからない、満たされない。
それは「生かされている」からです。図らずもいのちのご縁を頂戴したのです。全ていただきものなのですね。
死にたいと思っても、死のうと決めても、死の縁整はないと死ねません。生きたいと思っても縁尽きれば死んでいきます。
「生かされたいのち」の中で様々にいただくご縁の中で、「~したい」と感じるものに私たちは取り組んでみるしかないのでしょう。
叶うもご縁。叶えば喜びです。
叶わないのもご縁。叶わなくともどうして悲しむ必要があるでしょう。責任を感じる必要があるでしょう。それもまたいただいたご縁なのですから、自分の力がないせいだと驕る必要もないのです。だめなら、はい次のご縁と、また頂戴すればよいのです。
つまり、まあ力を抜いて頑張って生きましょう。
やりたいことやったもん勝ちです。やりたいと思わせていただくのもご縁ですから、有難いことです。
なんもしたくないというのもご縁です。それでもいいのです。私が自分の力でそうしているわけでもないのですから。
あらら?あれもこれもみなご縁。みんないただきものでした。嬉しいなあ、嬉しいなあ、生かされるって有難いなあ。
南無阿弥陀仏
暗闇の中に一瞬の暖かい光を求めて。
ちいさん、こんにちは。
何か苦しい人生の中で、なぜ生きなきゃいけないんだろう?って思ったのですか。
過去の歴史の先輩を学ぶと、人生の意味を考える人は、みんなその問題にぶつかり、悩み、苦労し、自分なりの答えを見つけて私たちのために記録してくれています。それが宗教であったり文学であったりします。
是非、一度、あなたの答えを見つけて信仰や文学の世界をのぞいてみてください。特に文学の世界はダイレクトに心にうったえてくれます。
私も生きることは苦しいことばかりだけど、一瞬の幸せがたくさんありました。子どもの寝顔は親になって良かったと思います。寝ずの徹夜仕事で朝を迎えても、朝焼けの富士山を見るとその美しさに感動し感動しがんばろう!という気持ちになります。これってたぶん苦労がなければ体験できない感動だと思うのです。
人生は辛く残酷でもあるけど、そこに一瞬の喜びがある。それを体験したくてお坊さんもしているのかも知れないし、そんなダメダメ坊さんでも、拙いハスノハの回答アドバイスに心を癒された相談者の有難うコメントを頂けると感動し、お坊さんをしていて良かったとも思います。
ちいさんにも辛いことが多いのかも知れませんが、必ず小さな喜びはあったはずです。結構苦しみの中では忘れてしまいがちです。
一緒に、生きる意味を見出し幸せになるために、がんばって生きていきましょう。合掌
真なる幸せへ向けて
ちい様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
何のために生きているのか・・
それぞれに生きる理由、意味、価値があるとは思いますが、皆、幸せ、充足を求めて生きているのではないだろうかとは思います。
それでもなかなか満足できずに、日々、迷い苦しむことになってしまっているところでございます。
その原因を仏教では「無明」(根本的な無知)にあるとして、その無明を晴らし、正しい智慧により、正しい行いを積むことによって、真なる幸せ、真なる安心を得るための悟りを目指すことを説く教えとなっております。
是非、仏教を学び修することに取り組むことで、真なる幸せ、安心を目指して頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました。(^O^)染川様の言葉にいつも納得と元気を頂いています。またよろしくお願いいたしますm(__)m