お坊さんからの回答 5件
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非思量
悟りというのは、思考を中心とした頭脳から、
事実だけの頭脳に切り替わり、自らの思いから影響を受けなくなった心の状態を意味します。
例
・釈迦が明星を見て悟った…思考から星という事実と一体になった
・香厳の撃竹…石コロが竹を打って思いから離れた
・道元の身心脱落…堂内の僧侶が叩かれる音で思量を離れた
これを思考から離れた故に、非思量といいます。(道元)
苦しみというものは、考え・思いの上でしか起こりませんから、思いから自由になることで、当然悩みや生じないのです。
あらゆる人間は思考を軸としていきます。
思考に親しむ生き方です。
悟りとは、思考以前、思考以後の「事実に親しむ生き方」です。
悟りを得るためには【心で以て思考で無い処(事実)=非思量】をみる他にありません。
たとえば、ここに思考と事実(非思量)の2台の自転車があるとします。
悟りの状態に至るには、
たった今から、思考の自転車のペダルを一切こがないことです。
思考の自転車のペダルをこぐとどんどん、考え、思いがあふれます。
それでは考えが起こる前後の事実の世界、悟りの世界からあなたを遠ざけます。
ですから、事実の自転車のペダルをこぐことで、悟りはちゃんと得られます。
坐禅や瞑想がおススメです。ダイレクトに事実のペダルをこぐことになるからです。
坐禅や瞑想が苦手でしたら、思考の活動から離れる事を念頭に、日常を生活されることです。
悟ろうとか、悟りたいの前に、ただ、「そのこと」がその通りにある。
悟りとも、迷いとも、当たり前とも言わぬ、その「確かな様子」がいつでも目の前にある。
多くの人は、「そこ」を見ずして、頭の中で思い描いた自分の理想の悟りを得てもいない内から、きめてかかって、そこに向かおうとするが故に、悟りに至れないのです。
思い切って、悟りを描き求める心を捨ててしまえばよいのです。
悟りたい、悟らんと、思い起こせば、悟りたいという一念欲が生じる。
一念欲が生じるが故に、たった今を親しめなくなる。
一念滅する所、一切、もとよりただ、かくの如し。
私の目の前には、ただその事実があります。平等の「そこ」があります。
「そこ」に取り扱いをしないでいると、ただ、その事実がその通りにあるだけになります。あまり難しくまつり上げずに、ただ事実に「そこ」に親しめばよいのです。
少しずつ…
悟りにもいろいろあります。
完全な悟り「阿耨多羅三藐三菩提」を得たいなら、非凡な志を以てしても、到底得ることは出来ません。
天台大師は三昧行法を修して六根清浄を得る方法を「摩訶止観」に残されましたが、到底実現可能なものではありません。
無上の悟りの境地はまだその上にあり、悟りへの修行は、厳格にして遠大です。
しかし、小さな悟りは身近にあって、誰しもが大なり小なり悟っています。
悟りとは腑に落ちることと似ています。
腑に落ちたことは二度とくり返し戻ってきません。
戻ってくるなら腑に落ちてないのです。
身の回りのことを、一つ一つ腑に落として執着しないことから始めて下さい。
阿弥陀様に任せていればいい
阿弥陀様に任せておけばいずれ悟ります。
何一つ努力も要りません。
臨終を迎えれば、自然と悟りを得られます。
今すぐ悟りたいならば、悟っておられる方を訊ねればいいと思います。
私はその悟りの境地は分からないので、分かっておられる方を頼りにしてください。
戒・定・慧の三学(追記6・16火曜日)
戒(五戒などの生活習慣の修行)、
定(禅定、精神集中の修行、止とも呼ばれる)、
慧(智慧、真理に気付くための観察して煩悩をなくすための修行、観とも呼ばれる)
の3つを三学と言います。
悟るためには三学の実践が必要です。
定(止)は、サマタ瞑想、シャマタとも呼ばれます。
慧(観)は、ヴィパッサナー瞑想、ビバシャナとも呼ばれます。
なお、この世で三学を実践するのが難しいと思う場合には、まずは三学を実践しやすい環境である浄土に往生するための行をしよう、という信仰もあります。
三学を実践して悟りをめざす仏教の基本の教えを聖道門、
聖道門を実践しやすい浄土への往生を目指す教えを浄土門と呼びます。
天台宗・真言宗などは聖・浄の両方をやりますが、浄土宗・浄土真宗などはほぼ浄土門のみです。
戒についてはこのサイトに書いてあります。http://www.j-theravada.net/pali/key-vinaya-sila.html
定については、さまざまな方法がありますが、例えば、同サイト内にある慈悲の瞑想をご覧ください。
慧については、同サイト内にあるヴィパッサナー瞑想をご覧ください。
具体的な実践方法の一例です。
悟るとは、十種類に分類される煩悩が順番に消えてゆくことだと思います。
煩悩は悩み苦しみの原因なので、悟って煩悩が減れば悩み苦しみが減ります。
三学をするのは、煩悩を弱め(最終的には消し)、悩み苦しみを減らし滅するためです。
禅定の修行については、集中力を養い慧(観察)の能力を高める効果と、煩悩を制御する効果が期待できます。
煩悩とは生物が先天的に抱いている勘違いであり、真実に気付いたら勘違いは消え失せます。
勘違いに気付くために慧(観察)が必要なのです。
「悟り」について
zenshu様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「悟りたい」とのことにて、もちろん、拙生も悟りたいです。
仏教は、悟り・涅槃を目指すための教えです。ですから、しっかりと仏教を修習していければ、必ず悟り・涅槃へと至れると確信致しております。
では、悟るために、何をするべきか・・
前回にも少しお答えさせて頂いておりますが、基本的には釈尊の八万四千の法門を頼りとして、悟りへと向けた確かなる階梯を歩むことが必要となります。
また、これまでの拙学びでお示しさせて頂いております下記の拙図のように、「智慧(空の理解)と福徳(方便・功徳)」の二資糧を正しく確かに修して、「煩悩障」と「所知障」を断じることにより、やがて悟りへと至れることができるのではないかと存じております。
「拙理解仏教図式No.7」
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/f11483ea1a2eb35ce5dcda72284b2bfa
次に、「悟り」に関しましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますが、その内容に関して述べるとなれば、やはり非常に難しいことになるのではないかと存じます。
「悟りについて」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_443680.html
一、悟りは自内証(自分の中で証されるもの)であり、他人にそれを伝えることができないものである。但し、悟ったもの同士であれば、分かることもあるのではないかと存じます。
一、悟りの内容は、戯論寂滅・言語道断の境地であり、本来、言語表現(固定、執着)が許されないものである。
一、悟りも「空」であり、実体・自性・自相としては成り立っていない幻のようなものであって、本来、幻のようなものである私たち自身、心、認識作用において、幻のようなものである「悟り」を幻のような者が捉えようとしているというものである。
とにかく、悟りは「無い」わけではありません。有ります。有るでしょうが、それが何であるのかが分かるためには、己自身が真に悟らない限りは、分かり得ないものでしかないということでございます。
誠に共に悟りへと向けてこれからも精進努力して頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
釈心誓さん、回答ありがとうございます。
それは楽でいいですね。しんどい修行がいらないなんて自分好みです。
丹下 覚元さん、回答ありがとうございます。
坐禅や瞑想の仕方を教えていただけないでしょうか?
あと質問なんですが非思慮になったらすぐ交通事故とかにでもあって死んでしまわないでしょうか?
願誉浄史さん、回答ありがとうございます。
その三学の仕方となぜその三学が悟るの必要なのかを教えていただけないでしょうか?
川口 英俊さん、回答ありがとうございます。