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なぜ生きていなければいけませんか?

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昔国語の授業で死生観の話になり、先生が「死ぬのがいけないと言うことに対しての絶対的な否定はできない。」という話をしました。

その時の話に妙に納得し、胸にすっぽりとはまってしまった考えはなかなか抜けず、今でもその問題に悩み続けています。

今の私の生活は、特に何が悪いと言うわけでも、何が楽しいと言うわけでもありません。悲観するべき人生でないのは恵まれていると思います。

ですが、このまま自分は生きている今なんてあるのかな、と思ってしまいます。

自殺する人たちに向かって、「これから生きていれば良いことがあるよ。」と説く人がよくいますが、別にこれからの楽しみに期待はしていません。これでは生きていく意味になりません。

「周りの人のために死んではいけない。」と言う言葉は確かにその通りだと思います。ですが、家族や友人、私の死後の事を考えると、それらはただの今の私の重荷でしかないと思います。

人生は先行きがわからなくて、その時その一瞬や1日によって状況が全く変わったりしますよね。辛いことも苦しいこともたくさんあって、日々の暮らしや将来にあまり期待もしていなくて、こんな状態で生きていく意味はありますか?

生きていくのに必要な「欲」がなければ、生きていく意味はないのでしょうか

なぜ人は死んだらいけないのでしょうか。
生きていかなければならないのでしょうか。
生きるって何がゴールですか?
先の見えないゴールなら自分で素早く終わらせても一緒じゃないですか?
死ぬってなんですか?
結局皆終わりには死ぬのに、生きる意味はありますか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

生かされている「いのち」

先生が言ったことは間違いではない。
しかし、あなたの理解に間違いがある。生死が思い通りになる、つまり「自分の力で生きている」「死のうと思えば死ねる」と思っている所が間違いなのです。

ここでお坊さんの説く生きる意味に納得できず、「死ぬ」と決めたとします。でも実際には死ねないのです。一方で多くの自死者がいるのもまた事実、一体何が違うのか。

それは、死の「ご縁」がととのわないと死ねないのです。自死の縁をいただいた人はある意味で今生きている誰よりも「生の意味」を強く激しく問い続けた。しかし自分ではそれが見いだせなかった。そしてそれだけではなく、自分を含む環境・状況その他諸々の条件が重なってある意味「死なされた」のです。

考えれば生もまた自分で選んで生まれてきたわけではないでしょう。何か意味や目的をもってこの世に誕生したわけではない。たとえ親から願われるものがあったとしても、本人としてはそれが全てではない様に。

そもそもがそうなのです。意味からはじまったのではない。はからずも生まれたという「事実」から始まっているのです。「生かされている」のです。

だから、あなたは生きる意味なんかわからなくてもこれまで生きてきた。そしてこれからも生かされていく。逆に生きる意味がわからないままでも死ぬときは死んでいかねばならない。

でもそれって苦しいでしょう?

だから宗教がある。仏教がある。そこに意味をいただく生き方があるわけです。

あなたが「~したい」という欲がないから生きる意味がないと決めるなら、それを徹底してみればよい。何にもしないでずっとごろごろしていればいい。

でもそれすらできない。自分の思いで決めたことすら徹底できない。「このままでいいのかな?」「不安だな、満たされないな」「なんかしたいな」と突き動かされてくる。現に今あなたはここに意味を求めて問うています。

あなたが自分の力だけで生きているなら、自分の思いを徹底できるし死も思い通りに選ぶことができる。
でもそうではない。「いろんな影響の中で生かされている。」それが仏教の説く「ご縁(縁起)」です。「私と世界はつながっているんだ」ということです。
それなら、世界のためにでも、私のためにでも何かしたほうが満たされるでしょう?死にたくても死ねない、死にたくなくても死ななければならない「いのち」を今生かされているのだから。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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人生を楽しめ

お釈迦さんは80歳まで生きたけれど、死の直前、こうつぶやきました。
「世界は美しい」

あなたは何でも分かっているような気でいるようですが、おっちゃんに言わせたら、なーーーーんにも見えていない盲人みたいだ。
あなたの命が今そこに在るのは、たくさんの縁と命のたまものです。
そこまで成長するのに、どれだけの命を取り込んだか、考えたことはありますか?

世界は広いぞ、面白い物事もたくさん存在する。
あなたがいつ死のうがあなたの勝手かも知れないが、そういう素晴らしいもの、美しいものを見ずに、楽しい経験も得ないまま死んでしまうのは、はっきり言ってもったいないよ。

喜びも悲しみも、すべての経験は人生を楽しむためのスパイスだ。
どうせいつか死は訪れるんだ、だからそんなもんは成り行きに任せてしまえばいい。

お釈迦様が波瀾万丈の長い人生の果てに、何を見て「世界は美しい」とつぶやいたのか、知りたくない?

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おきもち

様々なつらい別れや痛みを、私も経験しながら今日を生きています。 あなたの...
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花のように

もうすっかり冬になってきましたね。
寺のお墓にはつい先日までコスモスの花がたくさん咲いていましたが、秋も終わりほとんど枯れてしまいました。
花の命は儚く寂しい限りです。

しかし、花の生き様には私達も見習うところがあるように思いますね。お墓という生まれた場所や、コスモスという生まれた姿に不平不満を言わずに、精一杯成長し花を咲かせます。そして、種ができると今の綺麗な花の姿に執着せずに、花びらを手放し、その下にできている種を落とすのです。

私達人間も同じなのではないでしょうか。
ただ精一杯生きる、夢も希望も目的も欲も無くても、ただ人間として精一杯生きる、あなたのご両親の子として精一杯生きる、将来もし子供が生まれたら親として精一杯生きる、学生なら精一杯学ぶ、働く人なら精一杯働く、それだけではないでしょうか。

あなたの質問文からは精一杯の質問を感じました。私も精一杯に回答しました。
それでいいのだと思いますよ。

もちろん、夢や希望や目的や欲があってもいいし、あれば時として困難を乗り越える力になるでしょう。自分を向上させる動機にもなるでしょう。
しかし、それらが無くても精一杯生きることはできると思います。
どうか花のように精一杯生きてください。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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本当は死にたくないから生きている

そうは言っても、死にたくないから呼吸して食べて寝ているのです。
死にたくない(生への執着が残っている)のに死ぬ場合、悩み苦しみが生じます。
本当に生への執着がなくなったら「成仏」できます。

世の中の自殺する人々は、執着がなくなったわけではないでしょう。
今の人生がもっとすばらしいなら、生きていたいはずです。
宝くじで何億当たったら、やっぱりもう少し生きたいと思うでしょう。

本当に執着をなくすためには仏教の修行が必要です。
執着が無くなってから死ぬことが理想です。
執着がある場合、わさわざ死んでも苦しむだけです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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