仏教で言う慈悲とはなんでしょうか?

仏教で言う慈悲とはなんでしょうか?愛のことでしょうか?

有り難し 69
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回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

慈悲に三種あり

zenshuさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します、よろしくお願いします。

仏教での愛は「渇愛(かつあい)」などと言い、煩悩として捉えられています。いっぽう「慈悲」ですが、私の学ぶところですと小・中・大とあるとされています。

小慈悲は、いわゆる私たちの一般的な愛情、人情の世界です。「あの刑事さんは慈悲深くて、仏のヤマさんと呼ばれている」などという使い方です。

中慈悲は、仏教の根本である「無我・縁起」の教えを、自ら理解し、他者に伝えていくこととされています。

そして大慈悲は、中慈悲が無辺・完全に為されること。つまり「無我・縁起」の教えが、全ての衆生に完全に伝わることとされています。

私たちが普段使う「慈悲」と、仏教での「慈悲」(上記の中慈悲・大慈悲)とはずいぶん違うものですね。

ちなみにキリスト教では、人間同士のいわゆる愛情と、神から人間に対しての無限・無償の愛(アガペー)は別物と考えるそうです。
ですので、キリスト教を「愛の宗教」と呼ぶことがありますが、仏教で煩悩とする「愛」とはまったく違うものだということを付記しておきます。
(私が仏教を学びはじめた際、勘違いをしていた部分です)

2年8ヶ月前

坐禅して己を滅却してはじめてあらわれる

慈悲とは、いわゆるボランティア精神とは異なります。
坐禅(仏行)をして、自分を滅却していくと、おのれ意識が無くなります。
おのれ意識、自分意識、セルフ意識が無くなりますと、外と内との隔てや、左脳の分析的、分別的な分け隔てが無くなります。
その知の境界線が無くなりますと、自分を「自分」とも認めなくなります。
内気の隔てが無く外との完全な一体感が生まれます。

これは私の独自の論ではなく、道元禅師も「仏道をならふといふは、自己(自我意識)をわすることであり、自己を忘るるというは、(自他の隔てのない)万法に証せらるることであり、自己の身心、他己の身心をして脱落せしむるなり(自他の境界の無い様子に至る事が仏道である)。と正法眼蔵 現成公案の巻で明言されています。

その結果、相手の苦しみや悲しみが「わがこと、自らが事、人ごとではない状態」となって、慈しみの行為が自然に行わるのです。このサイトの回答僧侶たちのように。
仏の慈悲と、菩薩の慈悲の違いは、そこに義務的なものがあるかないかと言えましょう。
仏陀の慈悲は義務的な慈悲に縛られることもありませんから、❝救わなければならない❞という義務的な慈悲、人為的な慈悲でもないのです。
自らが、得られた宇宙全体としての他を❝利益し得る❞ことは自ずから、自然に、無条件に、無償に、提供できるようになるのです。
それが、第三者から見ると、やさしい、慈しみにあふれている、憐れみ深い様子でもあるために、慈悲と名づけられたものと言えましょう。
子供は、自他隔てなく、良いものは共有しようとします。
人間は、天然の慈悲心を持ち合わせているのです。
その慈悲心を、個人の価値観によって曇らされている大人が、自分の内より引き出すためには、自我意識を滅する仏行、坐禅などが良いと思われます。
慈悲は、他に求めるものではありません。
本有の天然の慈悲に目覚めて、多くの方々を利益なさってください。
おまけ
Q「わが東京大学の研究では、観音とは、釈迦の智慧と慈悲であると決定しましたが、西有禅師はどうお考えですか。」
A「お前さんたちは、理屈で慈悲だの智慧を論じているだけだからイカン。それでは絵に描いた餅じゃ。知識じゃ誰も喜ばん。わしはそれをとっくに行動として❝や❞っている」

2年8ヶ月前

慈と悲

慈悲は、慈(メッター)と悲(カルナー)の2つの気持ちです。
慈は、相手の幸せを願う気持ちです。慈の心は、怒りがあるときは生じないそうです。怒りがないときだけ、相手の幸せを願うことができる。
悲は、相手の悩み苦しみを取り除いてあげたいという気持ちです。慈よりも、より積極的に他者を助けようとする感じでしょう。
慈悲のことを「抜苦与楽」と言うことがあります。
「愛」というのは、仏教では渇愛・執着の意味で使われるので、あまり良い言葉ではありません。
愛には怒りが伴う場合もあります。
ストーカーや無理心中も愛でしょう。
仏教の慈悲は、怒りを伴わない愛情です。
怒りがないというのが重要です。

2年8ヶ月前

共感することです

zenshuさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。

慈悲とは、慈しむ(いつくしむ)と悲しむがひとつになった言葉です。
慈しむとは、親が子を無償の愛で包み込むように大事にすることです。
悲しむとは、誰かの悲しみを我が悲しみとして感じることです。例えば、東日本大震災で被災したり亡くなったりした人に対して、被災地以外の人が悲しみを感じることです。

どちらも共感することです。

慈悲の仏さまの観音さまがおられます。
悟りの世界で何の迷いもない世界におられるにもかかわらず、悩み苦しんでいる私たちのもとへわざわざ降りてこられます。慈しみの心で救いの手を差し伸べて「心配はありませんよ」と教えてくださるといわれています。

困っている人に救いの手を差し伸べることは慈悲の心であり、観音さまの所業なのです。

2年8ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

回答ありがとうございます。
自分も慈悲の心を持ちたいものです。

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