回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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慈悲に三種あり
zenshuさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します、よろしくお願いします。
仏教での愛は「渇愛(かつあい)」などと言い、煩悩として捉えられています。いっぽう「慈悲」ですが、私の学ぶところですと小・中・大とあるとされています。
小慈悲は、いわゆる私たちの一般的な愛情、人情の世界です。「あの刑事さんは慈悲深くて、仏のヤマさんと呼ばれている」などという使い方です。
中慈悲は、仏教の根本である「無我・縁起」の教えを、自ら理解し、他者に伝えていくこととされています。
そして大慈悲は、中慈悲が無辺・完全に為されること。つまり「無我・縁起」の教えが、全ての衆生に完全に伝わることとされています。
私たちが普段使う「慈悲」と、仏教での「慈悲」(上記の中慈悲・大慈悲)とはずいぶん違うものですね。
ちなみにキリスト教では、人間同士のいわゆる愛情と、神から人間に対しての無限・無償の愛(アガペー)は別物と考えるそうです。
ですので、キリスト教を「愛の宗教」と呼ぶことがありますが、仏教で煩悩とする「愛」とはまったく違うものだということを付記しておきます。
(私が仏教を学びはじめた際、勘違いをしていた部分です)
坐禅して己を滅却してはじめてあらわれる
慈悲とは、いわゆるボランティア精神とは異なります。
坐禅(仏行)をして、自分を滅却していくと、おのれ意識が無くなります。
おのれ意識、自分意識、セルフ意識が無くなりますと、外と内との隔てや、左脳の分析的、分別的な分け隔てが無くなります。
その知の境界線が無くなりますと、自分を「自分」とも認めなくなります。
内気の隔てが無く外との完全な一体感が生まれます。
これは私の独自の論ではなく、道元禅師も「仏道をならふといふは、自己(自我意識)をわすることであり、自己を忘るるというは、(自他の隔てのない)万法に証せらるることであり、自己の身心、他己の身心をして脱落せしむるなり(自他の境界の無い様子に至る事が仏道である)。と正法眼蔵 現成公案の巻で明言されています。
その結果、相手の苦しみや悲しみが「わがこと、自らが事、人ごとではない状態」となって、慈しみの行為が自然に行わるのです。このサイトの回答僧侶たちのように。
仏の慈悲と、菩薩の慈悲の違いは、そこに義務的なものがあるかないかと言えましょう。
仏陀の慈悲は義務的な慈悲に縛られることもありませんから、❝救わなければならない❞という義務的な慈悲、人為的な慈悲でもないのです。
自らが、得られた宇宙全体としての他を❝利益し得る❞ことは自ずから、自然に、無条件に、無償に、提供できるようになるのです。
それが、第三者から見ると、やさしい、慈しみにあふれている、憐れみ深い様子でもあるために、慈悲と名づけられたものと言えましょう。
子供は、自他隔てなく、良いものは共有しようとします。
人間は、天然の慈悲心を持ち合わせているのです。
その慈悲心を、個人の価値観によって曇らされている大人が、自分の内より引き出すためには、自我意識を滅する仏行、坐禅などが良いと思われます。
慈悲は、他に求めるものではありません。
本有の天然の慈悲に目覚めて、多くの方々を利益なさってください。
おまけ
Q「わが東京大学の研究では、観音とは、釈迦の智慧と慈悲であると決定しましたが、西有禅師はどうお考えですか。」
A「お前さんたちは、理屈で慈悲だの智慧を論じているだけだからイカン。それでは絵に描いた餅じゃ。知識じゃ誰も喜ばん。わしはそれをとっくに行動として❝や❞っている」
慈と悲
慈悲は、慈(メッター)と悲(カルナー)の2つの気持ちです。
慈は、相手の幸せを願う気持ちです。慈の心は、怒りがあるときは生じないそうです。怒りがないときだけ、相手の幸せを願うことができる。
悲は、相手の悩み苦しみを取り除いてあげたいという気持ちです。慈よりも、より積極的に他者を助けようとする感じでしょう。
慈悲のことを「抜苦与楽」と言うことがあります。
「愛」というのは、仏教では渇愛・執着の意味で使われるので、あまり良い言葉ではありません。
愛には怒りが伴う場合もあります。
ストーカーや無理心中も愛でしょう。
仏教の慈悲は、怒りを伴わない愛情です。
怒りがないというのが重要です。
共感することです
zenshuさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。
慈悲とは、慈しむ(いつくしむ)と悲しむがひとつになった言葉です。
慈しむとは、親が子を無償の愛で包み込むように大事にすることです。
悲しむとは、誰かの悲しみを我が悲しみとして感じることです。例えば、東日本大震災で被災したり亡くなったりした人に対して、被災地以外の人が悲しみを感じることです。
どちらも共感することです。
慈悲の仏さまの観音さまがおられます。
悟りの世界で何の迷いもない世界におられるにもかかわらず、悩み苦しんでいる私たちのもとへわざわざ降りてこられます。慈しみの心で救いの手を差し伸べて「心配はありませんよ」と教えてくださるといわれています。
困っている人に救いの手を差し伸べることは慈悲の心であり、観音さまの所業なのです。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
自分も慈悲の心を持ちたいものです。