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仏教で言う慈悲とはなんでしょうか?

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仏教で言う慈悲とはなんでしょうか?愛のことでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

慈悲に三種あり

zenshuさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します、よろしくお願いします。

仏教での愛は「渇愛(かつあい)」などと言い、煩悩として捉えられています。いっぽう「慈悲」ですが、私の学ぶところですと小・中・大とあるとされています。

小慈悲は、いわゆる私たちの一般的な愛情、人情の世界です。「あの刑事さんは慈悲深くて、仏のヤマさんと呼ばれている」などという使い方です。

中慈悲は、仏教の根本である「無我・縁起」の教えを、自ら理解し、他者に伝えていくこととされています。

そして大慈悲は、中慈悲が無辺・完全に為されること。つまり「無我・縁起」の教えが、全ての衆生に完全に伝わることとされています。

私たちが普段使う「慈悲」と、仏教での「慈悲」(上記の中慈悲・大慈悲)とはずいぶん違うものですね。

ちなみにキリスト教では、人間同士のいわゆる愛情と、神から人間に対しての無限・無償の愛(アガペー)は別物と考えるそうです。
ですので、キリスト教を「愛の宗教」と呼ぶことがありますが、仏教で煩悩とする「愛」とはまったく違うものだということを付記しておきます。
(私が仏教を学びはじめた際、勘違いをしていた部分です)

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浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...
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坐禅して己を滅却してはじめてあらわれる

慈悲とは、いわゆるボランティア精神とは異なります。
坐禅(仏行)をして、自分を滅却していくと、おのれ意識が無くなります。
おのれ意識、自分意識、セルフ意識が無くなりますと、外と内との隔てや、左脳の分析的、分別的な分け隔てが無くなります。
その知の境界線が無くなりますと、自分を「自分」とも認めなくなります。
内気の隔てが無く外との完全な一体感が生まれます。

これは私の独自の論ではなく、道元禅師も「仏道をならふといふは、自己(自我意識)をわすることであり、自己を忘るるというは、(自他の隔てのない)万法に証せらるることであり、自己の身心、他己の身心をして脱落せしむるなり(自他の境界の無い様子に至る事が仏道である)。と正法眼蔵 現成公案の巻で明言されています。

その結果、相手の苦しみや悲しみが「わがこと、自らが事、人ごとではない状態」となって、慈しみの行為が自然に行わるのです。このサイトの回答僧侶たちのように。
仏の慈悲と、菩薩の慈悲の違いは、そこに義務的なものがあるかないかと言えましょう。
仏陀の慈悲は義務的な慈悲に縛られることもありませんから、❝救わなければならない❞という義務的な慈悲、人為的な慈悲でもないのです。
自らが、得られた宇宙全体としての他を❝利益し得る❞ことは自ずから、自然に、無条件に、無償に、提供できるようになるのです。
それが、第三者から見ると、やさしい、慈しみにあふれている、憐れみ深い様子でもあるために、慈悲と名づけられたものと言えましょう。
子供は、自他隔てなく、良いものは共有しようとします。
人間は、天然の慈悲心を持ち合わせているのです。
その慈悲心を、個人の価値観によって曇らされている大人が、自分の内より引き出すためには、自我意識を滅する仏行、坐禅などが良いと思われます。
慈悲は、他に求めるものではありません。
本有の天然の慈悲に目覚めて、多くの方々を利益なさってください。
おまけ
Q「わが東京大学の研究では、観音とは、釈迦の智慧と慈悲であると決定しましたが、西有禅師はどうお考えですか。」
A「お前さんたちは、理屈で慈悲だの智慧を論じているだけだからイカン。それでは絵に描いた餅じゃ。知識じゃ誰も喜ばん。わしはそれをとっくに行動として❝や❞っている」

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慈と悲

慈悲は、慈(メッター)と悲(カルナー)の2つの気持ちです。
慈は、相手の幸せを願う気持ちです。慈の心は、怒りがあるときは生じないそうです。怒りがないときだけ、相手の幸せを願うことができる。
悲は、相手の悩み苦しみを取り除いてあげたいという気持ちです。慈よりも、より積極的に他者を助けようとする感じでしょう。
慈悲のことを「抜苦与楽」と言うことがあります。
「愛」というのは、仏教では渇愛・執着の意味で使われるので、あまり良い言葉ではありません。
愛には怒りが伴う場合もあります。
ストーカーや無理心中も愛でしょう。
仏教の慈悲は、怒りを伴わない愛情です。
怒りがないというのが重要です。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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共感することです

zenshuさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。

慈悲とは、慈しむ(いつくしむ)と悲しむがひとつになった言葉です。
慈しむとは、親が子を無償の愛で包み込むように大事にすることです。
悲しむとは、誰かの悲しみを我が悲しみとして感じることです。例えば、東日本大震災で被災したり亡くなったりした人に対して、被災地以外の人が悲しみを感じることです。

どちらも共感することです。

慈悲の仏さまの観音さまがおられます。
悟りの世界で何の迷いもない世界におられるにもかかわらず、悩み苦しんでいる私たちのもとへわざわざ降りてこられます。慈しみの心で救いの手を差し伸べて「心配はありませんよ」と教えてくださるといわれています。

困っている人に救いの手を差し伸べることは慈悲の心であり、観音さまの所業なのです。

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徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の...
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質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
自分も慈悲の心を持ちたいものです。

「仏教における慈悲」問答一覧

無償で人を助け続けることについて

はじめまして。 無償で人の要求に応え(助け)続けることとは、仏教的には何なのか、続けることに嫌な気持ちを持つ理由は何なのか、嫌になった場合はどうしたら良いのか、などお話伺いたいです。 きっかけはバイトです。 現在北欧に住んでおり、仕事はレストランでのバイトです。バイト先にはジプシーが大抵1日3人ほど来ます。 ジプシーとは、道で物乞いをするホームレスのような人々のことです。ヨーロッパで多く見かけられ、北欧にもいます。 彼らは決まって「カップとお湯をくれ」と横柄な態度で要求してきます。 私の何人かの同僚は、一切断っています。 理由は、1人の要求に応えると他のジプシーがどんどん来てお店がお客さんとジプシーで忙しくなるから、とのこと。 他の同僚と私は、たかがお湯を渡したところで減るものは無いし(店としては、カップ代の損失)、無銭でご飯を要求されているわけでも無いので、毎回要求されたら渡してきました。これで誰かが助かるなら渡した方が良いし、渡さないのは冷たいとも思ってました。 しかし、繰り返されるごとに段々嫌な気持ちになるようになりました。 お店が忙しいある日、1人のジプシーがいつも通り要求してきました。彼は2つ欲しいと言いました。ただでさえ忙しくてイライラしてるところに、嫌だなと思い始めてたジプシーの要求が来て、私は腹が立ちました。この怒りから早く解放されるために、彼に早く帰ってもらいたくて、私は2つお湯を渡しました。 ところが続けてまた別の1人のジプシーがお店にやって来てお湯を要求してきました。私の苛立ちは更に悪化して、お湯が無くなったと嘘をついて彼に早く立ち去ってもらおうとしました。 しかし彼はもらうまで帰ろうとしませんでした。なぜなら、前のジプシーが2つももらってるところを見たからです。 結局別のスタッフにお湯が無くなったことを説明してもらい、彼に帰ってもらいました。 なぜ私は、人助けを段々嫌になっていったのか、なぜある人は助けてある人には怒ったのか、自分の人助けへの感情や思考がわからなくなりました。お湯をあげる行為は1分で済み、それ以外の損害は私にはありません。 仏教的に、人助けとは何なのでしょうか、そもそも助けるという考えが誤っていますか。私の感情や思考方法について何かヒントがあれば教えてください。 最後までお読みいただきありがとうございました。

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慈悲の心を持つためには?

私は精神に病気を持ち、人生で2度の自殺を経験しています 生きる意欲がわいてこないというわけではなく、食べていくために働かなければならないということが受け入れられず、死のうとしました それはすでに自分の中で消化しすでに悩みではありません 問題は、食べていくために嫌な仕事をひたすらやり、その姿勢から同僚や上司をとても苦しめてしまったということです 今はその仕事をやめて無職ですが、以前人を苦しめてまで生きていた頃の自分を思い出すと、とてもやるせない気持ちになります 生きていくために仕方がない、それで周囲を傷つけてしまった こんなことなら死んでいたほうがはるかにましかもしれない、そういう道もあったんだと考えています 今は生きることに迷いもなく、死んでいくことも怖くはありませんし、私はあの世を信じていないので裁かれる心配もありません ただ、どうしても昔の自分の生き方に後悔を持って、今はそれに苦しんでいます 仮に因果応報が私の身に降りかかったとしても覚悟をして生きているので素直に裁かれるつもりはありません ただ、覚悟だけを頼りに生きると周囲の人にも覚悟を求めてしまい以前の自分と何も変わりません 自分は十分に傷ついたと思いますが、それを優しさに変えることができません 慈悲の気持ちを持つにはどうすればいいでしょうか?

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間違った教えの見分け方

前回の質問の回答が、よく分かりませんでした。 (※特定の宗教団体に関する書き込みがあったため、質問は削除されたみたいです。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Q「慈悲」は人によって全く違うのか あるお坊さんの問答にて1 「私は仏様の存在を感じることが出来ます。けれど、周囲にこの話をしても誰も信じてくれません」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「それはとても悲しいことですね。その人はかわいそうな人です。地獄に落ちるように祈ってあげましょう。それも慈悲なのですよ」と。 別のお坊さんの問答にて2 「過去に人からされたことで苦しんでいます。どうすればいいでしょうか」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「自分は遥かに優れていて、相手は可愛そうなのです。そのように見てあげる慈悲の心を持ちなさい」と。 どちらも実在するお坊さんの問答です。 慈悲とは何でしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この回答で、 「そのお二人のお坊さんの言葉は慈悲の間違った使い方だ」 というご意見と 「この言葉・表現により、仏の悟りが具体的にその人にはたらくならばそこには「慈悲」があるのです。「その人の」ではなく「仏の」慈悲です。」 というご意見がありました。 双方、慈悲についての説明があり、仏教にとって「智慧」と「慈悲」はとても大切なものなのだと知りました。 しかし、間違いないのか間違いではないのか分からないまま終わりました。 非仏教徒である私や詳しくない人は、例に挙げたような話をされると、言葉通りの意味=仏教でいう慈悲なんだと信じてしまいます。 間違っているのでしたら、どのように間違っているか。 どのように見分ければよいのでしょうか。 仏教に無知な私にも分かるように教えてください。 お願いします。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ