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生きることも死ぬことも不安で仕方ないです

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有り難し有り難し 20

私は生まれてから今まで、恵まれた環境で何一つ不自由なく過ごさせて貰ってきました。
それなのにもしくはそれ故に、今の生活から何か不自由なことが起こったらどうしようかという心配が止まず、心を落ち着かせて今を満喫できません。
諸行無常の世の中で変化を恐れ、身内や自分の健康や金銭面での安定がいつまでも続いて欲しいと願い続けています。
これは誰もが願うことであり、そして変化は避けられないものだと承知していますが、明日の我が身に何が起こるか知れないと思うと、生きることも死ぬことも不安でなりません。
今お金を使ったが為に将来金銭的に苦労することになったらどうしよう、今余分に食べたが為に肥ってしまったらどうしようなどという些細な心配から、もし仕事で大事故に繋がるような失敗をしてしまったらどうしよう、もし身内が事件に巻き込まれていたらどうしようという不安が、堪えず頭を過っています。
こんな心配ばかりしている人の声はなかなか耳にしませんが、本当は皆同じように不安を抱きながら過ごしているのでしょうか?
周りの人達はもっと明るく前向きに暮らしているように感じられ、自分のこの無意味な心配性をどうにか良い方向に向けられたらと思っています。
失敗から学んだり這い上がることも大切なはずなので、もう少し精神的に強くなりたいです。
いつか必ずくる死や苦しみを受け入れられるようにもなりたいです。
少し変わったところで心配性で、生きることも死ぬことも不安な自分に、前を向けるよう何かお声掛けを頂けたらと思います。
どうぞ宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「不生不滅」

梅雨生まれ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

生死へのご不安、誠にもっともなことであるかと存じます。

生死を明らかとするのは、まさに仏家一大事の因縁と、道元禅師もおっしゃられています。

仏教を学び修する私たち仏教徒たちにおいては、この生死を明らかにすることにより、生死に対しての不安や恐れ、迷い苦しみというものも取り除いていくことが肝要となって参ります。

私たちの様々な不安や恐れ、迷い苦しみというものは、おおよそ「無知」からやってくるもの。

その「無知」とは、仏教的には、「無明」(むみょう)と申しまして、真理を知らない愚かな心の状態のことを言います。

「幽霊の正体みたり枯れ尾花」というようなもので、その正体を知ってしまえば、きっと不安、恐れを拭うことができるようになっていくでしょう。

では、その不安や恐怖を拭うためには、どうすれば良いのかと申しますと、「生死の真理」をしっかりと理解して見極めることが求められるものとなります。

その真理の見極めへと向けたヒントの一つとしては、「般若心経」の中にも出て参ります「不生不滅」という言葉の示めそうとしているような境地の理解となります。他には、「不死の境地」、「不生の境地」とかとも表現されます。

是非、これを機縁として、仏教を学び進めていく中において、「生死」の真理についても明らかとすることにより、不安、恐怖、迷い苦しみを少なくすることで、前向きに過ごせるように調えて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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諸行無常でも大丈夫です

拝読させて頂きました。あなたのお気持ちよく分かります。その不安な気持ちは誰でもが実は潜在的にも思うことです。あなただけではありません。
誰しもが失うことは怖いことですから。
私も幼少の頃その不安にさいなまれてしばらく家から一切出ることできずに閉じこもりました。しかしその不安から逃げることはできませんでした。
あなたがおっしゃるとおりこの世は諸行無常です。一時も止まることなく常に変化を続けているのです。誰もそれを止めることはできません。
そして生老病死がどなたにもあるのです。
それを受け入れていくことが大切なことです。失うことは確かにつらいことですが、よくよく考えてみるとどれも実は自分のものではありません。
この身体でさえ刻一刻と移り変わっていくのですから自分のものではないことがわかります。私達は毎日多くの生命を頂きながら常に変化している身の上なのです。
でなけばちょっと汚い話ですが自分が用を足した排泄物にも自分のものとして失うことを怖れて執着してしまうことになります。
いかがでしょうか?私とは実は心の有り様でしかないのです。
もとから自分のものではないのですから変化してしまうことや失うことを怖れることは実は自己矛盾なのです。
仏教は諸行無常、諸法無我、涅槃寂静。
その有り様をありのまま受け入れていくことです。執着を消し去ることです。
生きていく中ではなかなか消し去ることは難しいかもしれませんが、少しずつその有り様をありのまま受け入れていってくださいね。
そうしていく中であなたの心は満たされて参ります。
それが本当の円満です。そして仏となっていく道です。つまり成仏です。
あなたはその仏教のみ教えに巡り会えたのです。どうか人生をかけてそのみ教えを学び受け入れていってくださいね。
あなたのこれからの未来が明るく開けていき心も身体も充実して満たされていき、本当の豊かさの中で生きていかれます様にと切に願います。
そして心からあなたを応援させて頂きますね。

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おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

ご回答有り難うございます。
お二方から不生不滅・諸法無我のお言葉を頂き知ってから、現在変化を恐れすぎず受け入れながら過ごせています。
この先直ぐには受け入れ難い事も起こるとは思いますが、何かに執着し過ぎず、その時々の自分らしくいられたらと思います。
仏教の御言葉が道しるべとなり、私の人生を明るい方向へと導いて下さっているように感じられます。
本当に有り難うございました。

「生きるのが辛い」問答一覧

どうしていいか分かりません

いつも素敵なお言葉のお陰で幸せに生きております。前提としてこれは贅沢な悩みなんだと思います。 仕事も安定し趣味のイラストも沢山の人に見てもらえ多分幸せなんだと思います。ただ、私自身幸せというのがよく分からなくなりました。 前から好きな人がいます、私自身暇な時間が多くどうしてもその人を考えてしまいます(よくないことは分かるのですがなかなかうまくいかず....。) 少し前に会う機会があったのですが、私自身は人生で一番かというくらい楽しく笑顔で話せたのですが、好きな人はあんまり楽しくなかったようで、また少し距離ができました。 好意を持ってほしいですがこれは他人の気持ちなのでコントロールできないとは言い聞かせ、引き続き自分ができる範囲の努力をしていこうとは考えてます。 好きな人が他の人と楽しく話しているとどうしても悲しくなります。 私の悪いところで一般的に楽しいという事が最近楽しくないです。 ・簡単な会話やただ褒めるだけの会話 ・美味しいものを食べるとか、いいねが多いとか一般的に楽しいというもの ・孤独が好きなこと ひねくれているし人間関係が悪くなるのは当然だなと思いながら毎回こんな風に生きているので、最近何が何だか分からないです。 幸せなんだと思うんです、お金も生活も安定して好きなことして、。好きな人もいて好きな人は最近幸せそうで。 ただ、1秒でも好きな人にハグされたかったなぁ

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休めない五月を生きるために

いつもお世話になっております ここ数年、副業が複数ありフリーランスに近い働き方です 五月の労働時間は、週50時間を超えそうです 仕事上の成果も、おかげさまでそれなりに実を結んでいます 今までの経験を活かし、新人や若手を育てる役目も担える立場にもいます 相手や自分の未熟さを受け入れた上で、焦らずにじっくりと正しく成長に繋がる選択をする、相当の忍耐や心の広さも周りの重鎮・長老的な立場の方から教わり、なおかつシニア層の心身のケアをお返しして長期雇用継続を支えているような毎日です 毎日が自己実現のための勉強や経験、プラスの成果・収穫に富んでおり、有り難く充実しています 副業先からは「もう少し来てほしい」と請願されています そしてまた子育てもあります 腹を割って話す、本気で向き合う時間と労力の必要な時期です 子のいないところで、伴侶とも話し合いをし、お互いの方針への理解を深めようと思っています 親の背中からの子の言動に、頭を抱えてしまうこともしばしばです 悪い芽は早く摘む「今のままでは自立が遅れ本人にとっても親にとっても良くない」と感じた時は、折に触れて伴侶にもちかけたり、子にも心の内を打ち明けています 一時期干渉をし過ぎたこともありましたが、なかなか距離のとり方は難しくも、子どもの反発は成長のあらわれだともわかり、それほど自己嫌悪=凹まなくなりました 家の事は特に課題が多く、正直氣の休まる時間はもっと必要です 忙しさに追われるとますます余裕がなくなるため、週3〜お寺に伺い読経や御詠歌の稽古で心身を落ち着け、行事にも出仕しています 治療家からの助言 若手専門家 「自分のからだと相談」「今は(定期的なメンテナンスで)安定しつつある」 指導員級専門家 「体調が崩れる原因は頑張り過ぎ、とにかく無理をしないこと」「なるべく温存するぐらいで、ちょうど良い」 自分自身、心と体の健康バランスを保つために 「空白の時間をつくる」「何もしなくてよい時間」疲れを回復させる時間が必要だと思いつつ 有り難いことに仕事が入ってきます 過信をせず 仕事の調整が必要だと判断し 余力を持ちながら 5月を乗り越えたいです 仕事を受け貯金もし 学校への目標達成へ 走り続ける目先の得より 自分を大切に ちゃんとエネルギーを 残しつつ皐月も勤しむよう お坊さんからの慈悲のお諭しをいただけますか

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学校に行くのがつらい、生きるのがつらい

こんばんは。見て下さりありがとうございます。 最近生きる気力がありません。 おそらく原因は数ヶ月前、仲がいいとおもっていた友人に裏切られたことです。 信じていたのにと、どうしようもなく勝手に思ってしまいます。他人に過度に期待を寄せすぎたのかもしれません。 自分にも非や自業自得な部分もあり、相性が合わないのは仕方ないことだと思うので、お互いのために距離を置いたりすること自体は普通だと思うのですが、最近その友人と友人のグループから嫌がらせのようなものを受けていて、私は写真を撮られること自体が嫌なのに勝手に写真を撮られて挙句の果てにはTwitter(鍵垢)に載せられたり、いろんなところで悪口を言われたりしていて、今まで信用していただけにとても悲しくてつらいです。 4月になってからクラス替えをしてその子たちとはクラスが別々になったのですが、廊下などですれ違う時にくすくすと笑われたり、わざと聞こえるように気持ち悪い、死ねなどと悪口を言われたりします。 私が気にしすぎなところもあるとおもいますが、気持ち的にかなりしんどいです。 言葉にするのが難しいのですが、宿題をしようかなと思った時に親に宿題やれと言われるとやる気が無くなるのと同じような感覚で、なにしようとおもったらいつも誰の声が聞こえる訳でもないのに誰かにそういったことを言われてる気がして、怖くなったりすべてに怯えてしまってなにもできなくなってしまいます。 頑張って生きようと思っても、誰かに生きるなだとか、あの子たちにしんでしまえと言われている気がして、苦しくて生きるのがつらいです。 私はこれからまともに生きていける気がしません。 どうしたら、今より楽な考え方で生きていけると思いますか。 お坊さんのお考えをお聞きしたいです。

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行動への強迫観念?と推しへの不安

私は、自分のちょっとした行動が不幸をもたらすんじゃないかという不安にずっと取り憑かれています。 「不幸をもたらす」の対象は、自分だけでなく自分の大切な人だったりしてかなり苦しいです。 その行動一つ一つは大したことなく、「洗い物をしなかった」みたいな少し悪いこともありますが、大抵「ジュースの缶を左手で持った」みたいな本当にしょうもないことです。 どんな行動に対してそう思うのか、ということに決まりがある訳じゃなく、急に「こうしないと悪いことが起きてしまう」みたいに思います。 別に昨日はジュースを飲む時に缶をどっちの手で持ってもよかったけど、今日は左じゃダメって缶を持つ瞬間に思って、持ち替えたり、或いは間に合わなくてそのまま左手で持っちゃったり、という感じです。 ところで私は競馬が好きで、推しの騎手を応援するという楽しみ方をしています。 ですが先日、ある騎手の方がレース中の事故で命を落としました。 今まで怪我は見たことがありましたが、死亡というのは私の見ている中央競馬では長い間なかったことで、なんだかんだ帰ってきてくれると思っていただけに、とてもショックでした。私の推しではありませんが、推しの相棒とも言える馬の調教によく携わっていた方で、お子さんも産まれたばかりだったそうです。 そして改めて騎手という仕事の危険性を実感しすごく不安になりました。それでも競馬は楽しいし、見るのをやめるというのは亡くなった騎手の方にも、これからも頑張り続けるであろう自分の推しにも失礼だと思うので見続けますが……。 そして、その不安がそうさせるんだと思うんですが、上に挙げたような自分の行動が推しやその周囲のことを傷つけないか不安です。 回避できたらまだいいですが、行動を途中で止められず回避できないことも多いです。さっきもそうでした。 車は急に止まれないって言いますが、そんな感じだと思います。たとえばジュースを左手で持ったらいけない、って思ってもその時左手がジュースを持つ体勢に入ってたらそのまま持ってしまいます。 頭の中で「〇〇したらダメ!」ってなるのが、回避できるか否か微妙なタイミングだったりする時があるのも大きいです。 うまく説明できなくてすみません。 自分でも馬鹿だと思いますが、日常が少ししんどいです。

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日々を過ごすための気の持ち方

30代の男性サラリーマンです。未就学の子供が二人いるのですが、幸い私の仕事がほぼリモートワークで家事や育児もかなりこなすことができています。子供たちは勿論大事なのですが、例えばお風呂に入ろうだとかやらないといけないことを声掛けしても無視したり逃げたりと、正直うんざり気味でかわいくないなと思うことが最近増えてしまっています。内心一秒でも早く成長して好きなことを見つけ、早く家を出て欲しいです。 夜は夫婦日替わりで子供を寝かしつけ、20時には自由時間になるのですがやりたいことも何も無く、少しスマホをいじって21時には就寝してしまいます。昼のうちは夜になったらあれをやろうとか考えるのですが、いざ子供が寝ると何もやる気が起きず、眠くなるまで虚無のような時間を過ごしてしまうのがここ数年の悩みです。 妻は夜遅くまでネット上の繋がり等で好きな時間を過ごしており、それも妙に居心地が悪いのも私が早く寝るようになった原因な気がします。 最近、子供への苛立ちや妻との距離感、やりたいことも皆無な日々を過ごすにつれ、早く歳をとってさっさと死にたいという無気力な諦めのような気持ちが強まっています。 そんな自分の感情に向き合うのも疲れてきて、最近はイライラしたり子供に怒鳴りそうになったらあえて感情を抑えて無表情でやりすごす術を身に着けたので少し楽になってきましたが、より一層諦観が満ちて悪循環に陥っている感じです。 仕事に打ち込めればいいのでしょうが、生来無気力な人間なので労働自体が好きではなくそれも難しいです。育児のままならなさと比べれば仕事のストレスは極めて些細で心身の負担にならず、家族を養うのにも十分な収入をいただけていることはことは唯一の救いです。 振り返ると幼少期より怪しい宗教に借金にとろくでもない両親のもとで育たことで、期待せず自分の意志を殺して生きるのが身に染み付いているのかと思います。 長々と書いてしまいましたが、私のような不平不満ばかりの無気力な人間はこの先何十年もどう生きていけば良いのでしょうか。自分が恵まれた環境にいることは重々理解しており、甘えるなというのが回答かもしれません。自分の気持ちを前向きに切り替えて頑張るしかなく、きっとこんなところで人頼みにするようなことではありませんが、家族や周囲の人にこんな甘えた相談もできず、何かアドバイスがもらえないかと思い相談いたしました。

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仕事を変えてでも地元に帰るか悩んでいます

何度かこちらでお世話になっております。 前回は実りあるご回答頂き、誠に感謝いたします。 あれから根っこの問題について。 地元に帰る事について改めて考えました。 身内の事情も考えて、心機一転と安易な気持ちでと事前に下調べもせずに移り住んだ事は軽はずみであったと思います。 身内とも相談しました。 「私の事はよいから自分を優先して私たちの故郷へ帰りなさい」と言いますが、現に経済的支援や通院などの必要性が出ているので口でそう言われてもと思ったりもしてしまいます。 身内と共に帰るとなれば、私が養っていかなければならないのですが、それも悩みの一つです。 地元に帰っても長年続けてきた仕事は出来そうになく、全く違う分野の仕事になりそうです。 年収も減るのでその心配もあります。 同じ仕事を出来ない理由は特殊な施設で働いていて、数少ない求人が出ていても労働条件が基本悪いです。(有給を年間5日以上使えない、年間公休日について、時間外労働など)今の業界は職員の自己犠牲の上に成り立っている部分があります。 なので、同じ施設の求人が出ていても、ある程度選り好みをしなければ元の木阿弥ですので慎重になってます。(人不足は人間関係の悪化、雰囲気に影響する) この前履歴書を書いていたのですが、職歴が2枚目になってしまいました。 今の仕事内容はとても好きで、手足が自然に動くほど慣れ親しんだものです。一番の悩みは今の仕事の人間関係、大半の人の人柄です。 今の地に長い事居たら自分主義の適切でない利用者への対応など、価値観が自分に染まっていくのでは?と漠然とした不安もあります。そうならないよう自分を強く持ち続ける事の大切さも理解しています。 どうしても帰りたいのなら違う仕事でも挑戦してみるべきでしょうか? 自身の拙い社会人歴を振り返ってですが、、 地元(および近郊都市)でおそらく余程の万年人不足のところを選ばなければ、今より人間関係においては改善される可能性は高いのかなと思っています。 お導き頂けたら幸いです。よろしくお願いします。

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人のために生きること

人のために生きることってダメなことですか? 親が離婚し母子になってから、母に自慢に思ってもらえる娘であることを目的として勉学進路職業を決めて生きていました。他にも彼氏や友達、自分の手の届く範囲の人のために何かをすること、相手に嫌われないことを第1に生きてきました。 誰かのために生きていると、当然ながらその誰かはいつか居なくなることもあります。彼氏と別れる、友達と疎遠になるなど。その度、異常なほど心を病み、代わりを見つけたくなってしまいます。大人になるにつれ、それはどんどん加速し、あまりの落ち込みに仕事に行けなくなる、常に不安で涙がでる。そんな症状がでるようになりました。 先日、人生の目的の大部分を占めていた母が、見ず知らずの男性との再婚を希望したこと、それにより自分はその知らない男性の家には帰れず、実家を失うに等しい状態になったことに、頭が真っ白になりました。 突然、目的を失ったような感覚です。 彼氏や友達との別れ、母との距離に落ち込んでいると、必ずと言っていいほど、 人のために生きてるからダメなんだよ。自分のために生きないと。そのようなニュアンスのことを多くの人に言われます。 恐らく私は他人に依存している、そのような意味合いで言われているのだと思います。 確かに、生きる意味になってる人を失った時、周りから見たら恐ろしいほどに傷つき、目的を失うことで無気力になるのもわかっていますし、これを何度も繰り返すことは自分の心に良くないことも分かっています。 それから人のために生きることはダメなんだと思い、代わりを探すのをやめてみました。すると、ふわふわしてなんとも言えぬ不安に襲われ暴れそうになってしまいます。 生きる目的になる人を探さないと、心が安定しません。いけないことでしょうか?いけないのだとしたら、自分のために生きるってどういう状態を言うのですか?教えてください。

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新しい環境への不安で潰されそう

先週知っている人も全くいない土地に引っ越してきました。一度住んだことのある市ではありますが全く馴染みのない場所で実家も同じ市ですが車でも電車でも1時間以上掛かります。 引っ越した理由はマンションの購入、そして夫が以前の場所では勤務先まで2時間ほど通勤に掛かっていたので職場に通いやすくなること。 私は前の住居がとても気に入っていて一歳の息子がいることもありママ友がいたり、子育て広場があったり、近くの商業施設などが充実していたり、、、と本当は引っ越したくなくてかなり夫とぶつかりましたが、妥協も必要だろうと結局引っ越すことになりました。 (引っ越しても、近くにスーパーがある、子育て広場もある、駅にバス一本でいけるなど過ごしやすい環境が充実しているということ) 出来るだけポジティブに前向きに考えようとインテリア探しをしたり、引っ越しても新たな楽しい場所を開拓しようと息子を連れて出掛けたりしていますが、ふとした瞬間に今まで週3回ほど通っていた以前の子育て広場の保育士さん、顔見知りのママたちに会えないことを痛感し凄く寂しくて心が潰れてしまいそうになります。 まだ今の場所では子育て広場に行ったこともないし知っている顔も1人もいなくてこれからもずっと友達出来ないかもしれないと思うと切なくて涙が出そうです。 母に相談しても心配されるだろうし、夫には引っ越す時でさえもママ友は新しい場所で作っていくもの、今のママ友と離れるのが寂しいと言ってもそんな深い関係じゃないとあんまり気持ちを分かってくれなさそうで話しにくいです。 (といいつつ昨晩気持ちを、素直に話しましたが私を責めるわけでもなく友達できるよみたいな軽い感覚で、、、) 新しい環境なんてみんな緊張の連続であることは重々承知なのですがあまりに狭い世界で生きてる気がして辛いです。 今妊娠6ヶ月で更に一歳の息子を育てていて心がいっぱいいっぱいになっています。 不安ばかりが勝ってしまう新生活でどうにか明るい気持ちを持って新生活に臨みたいです。 ポジティブになりたい、元気に過ごしたいこの気持ちは常にあるのになかなかそうは行かず辛いです。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ