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日本の僧侶と中国の僧侶の違い

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日本の仏教と中国の仏教は深い絆があります。
長い時間を経て、両国の僧侶の生活習慣はどんな違いがありますか?
お坊さんはどう思いますか?
どうぞよろしくお願いいたします!


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

生活習慣の違い

KOUさん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。

海外から質問をありがとうございます。

日本と中国の生活習慣の違いについて私の知っている範囲で書いておきます。
本堂の形や食事の仕方で違いがあります。中国は日本の畳文化がないので本堂に限らず殆どのお堂が土間敷で直立してお経を詠みます。日本は畳の上で座って今日を唱えます。食事も中国は土間なのでテーブルと椅子を使って食べます。日本では畳の上で座って食べます。

畳文化の違いで経を唱える時の姿勢や食事の様子も変わるようです。

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徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

みんな違って、みんなイイ。…ですが

昔、世界中の人たちが表面的な違いを乗り越えて仲良くなってもらいたいと思い、こんな歌を作りました。
「うどんも、ちじみも、パスタも、パンも、ナンも、素材はみんな麦。みんな違ってみなウマい。みんな違ってみんなイイ。」です。
ちょっと金子みすずさんの歌も若干パクりましたが(笑)。
宗教も、国の違い、生活習慣の違いも、みんな表面的に形が違っていても、根底が同じであるということを知っていればいいのではないでしょうか。
根底は、見る、聴く、話す、食べる、働く、あそぶ、幸せを求める…、世界民族共通です。
日本でも、宗派が変われば作法もみな違います。
同じ宗派ですら、人はみな違うものです。
表面的な違いよりも、同じ仏教として共通するべき事をこそ、隔ててはいけないと感じています。
(答えになっていませんが)
仏教は、人間のルールに縛られない生き方であるのにもかかわらず、現在の中国では、人間のルールによって、拘束制約されている面があるように中国に行った際に感じました。
人間は、一人一人、それぞれ固有の種です。それぞれ違った花を咲かせます。それぞれ一人一人が、その花を咲かせることだけに一生懸命になればいいと感じました。あれ、どこかで聞いたフレーズ?(笑)
曹洞宗では道元禅師が如浄禅師との出会いによって国境、歴史、民俗を超えて確かなる仏心、悟りが相承されました。
悟りには、表面的な呼び名が色々あって異なりますが、おなじ一心です。
そこが共通している事が一番大切であると思います。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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