悟りとあきらめは何が違うんでしょうか?
悟りって結局、あきらめなんじゃないでしょうか?
昨今の悟りブームで「今ここ」「ありのままの自分」を許容することが悟りであるとよく色んな本で言われていますし、釈迦も「むさぼるな、足るを知れ」なんておっしゃっておりますよね。
でも、これって結局、あきらめなんじゃないでしょうか?
釈迦が「むさぼるな、欲望とは空しいものである」なんて言えたのは釈迦が貴族に生まれて若いころに金だの酒だの女だのって遊びつくしたからこそ気づけたものですよね?
贅をつくしたことがある人が、贅をつくしたことがない人に欲望とはむなしいと言っても伝わらないと思うのですが・・・。そりゃあ、誰だって金だの酒だの女だのって遊び尽くせば、つまらなくはなるでしょうって感じです。
よって、欲望はつきることはないので今の自分を許容しましょうというのはただ単に、
お前は金がないんだから、あきらめろ
お前はブスだから結婚できない、あきらめろ
お前なんかに将来は見込めない、あきらめろ
ということを、ものすごくきれいな言葉で言っているようにしか聞こえません。
確かに今の自分や状況を受け入れてしまえば、一時だけは「このままでいいんだ!」なんて楽になりますが、後から反動で満ち足りた人とは違う惨めな自分にフォーカスがいき、ネガティブの渦に巻き込まれてしまいます。
結局、悟りなんてものは、上手く自分の不幸な状況から脳をだませた状態、きれいにあきらめた状態というものではないでしょうか?
乱雑な長文を失礼しました。たくさんの回答をお待ちしております。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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相対化された世界に「ありのまま」の世界はなし
はじめまして。亀山純史と申します。仏教における「ありのまま」という認識について、お話をさせていただきます。
「ありのままの自分」とはどういう認識でしょうか。たとえば、「私は身長が170cmで、体重が65kg、趣味は音楽鑑賞であり、現在大学の四年生である。」という認識が「ありのままの自分」という認識でしょうか。「ありのまま」とは「相対化され得ない」ということです。ですから、「ありのまま」に物事を見ようとすれば、相対化された見方からは生じません。しかし、私たちの日常の認識で、相対化され得ない認識はないのです。私たちは常に相対化して物事を見ているのです。たとえば「お金持ち」といったら、どれくらいのお金を持っている人をさしますか。「貧乏人」といったら、どれくらいお金がない人をさしますか。100万円を持っている人がお金持ちでしょうか。ある人から見れば、お金持ちでしょうし、またある人から見れば、貧乏人だ、ということになるでしょう。あるいは「相対化されていない右」はあるのでしょうか。ある方向から見れば右であっても、別方向から見ればそれは左です。人間関係にしてもそうです。兄は弟が生まれて兄になります。一人っ子の兄はいません。このように私たちの認識は、全て相対的な認識です。それに対して、「ありのまま」とは「相対化され得ない」ということですから、「ありのままの自分」とは「相対化され得ない自分」であり、それは私たちの言葉による認識を越えたところに見いだされる自分です。決して、「お金がない自分」「ブスな私」「未来に見込みがない自分」という認識が、「ありのままの自分」に対する認識ではないのです。そしてブッダはその「相対化され得ない」認識、「言葉を越えた」認識で物事を見ることができる人です。
悲しい沈黙 と すがすがしい沈黙 の 違い
人間誰でも、本当に静かにしようと思えば、心を静かにすることができます。
ちょっと21秒黙ってみてください。
7秒で過去の事を思うのを終わらせてください。
7秒で未来の事を思うのをやめてください。
7秒で現在の思いを終わらせてください。
…
さて、その沈黙の「質」はいかがでしょうか?
沈黙と言っても色々な、こころの周波数があります。
悲しい沈黙、暗い沈黙、安心の無い沈黙、♬音の休符的な一時的沈黙、思いが起きても影響されない沈黙…何が起きても平静でいられる沈黙…
金がない、ブス、見込みがないと言われて、悲しんで沈黙して何もしなくなる沈黙なのか。
金がない、ブス、見込みがないと言われても、へっちゃらなでいられる沈黙なのか。
黙ったままではなく、そこで諦めずに、行動に移せる沈黙なのか。
悟りの沈黙は、人間の価値観が入り込んでこない沈黙なのです。
それはとてもすがすがしく、明るい沈黙なのです。
あきらめる、というのは、ネガティブなイメージがあるように感じませんか?
(-_-;)…もうダメだ、こうしたいけど出来ない、がっかり、しょんぼり…
悟りの沈黙には、そのようなことがありません。
私はお金がないし、ブチャイクですし、才能ももっとある人よりは有りませんが、
何もあきらめる必要もありませんし、
そのような言葉を言われたにせよ、ネガティブな意味として、脳内で機能させない、影響させない心のあり方をしています。
同じ沈黙でも、まるで違うのです。
今ここにありながら「事実に安住すること」と、
今ここにありながら「思考、思いを起こして」❝あきらめる❞という思考ペダルをこいで、握っているいる姿とは別次元なのです。
悟りには握り事、掴み事がないからです。
興味があれば坐禅会で「悟り」の状態がどういうことかをみずから体験、実証してください。
あなたに足りないのは自分の沈黙の質を知る、見極める、向き合う勇気です。
過程のはなし
はじめまして。
色んなところから知識を吸収されているご様子ですが、少し解釈が違うようです。
悟りとは一見諦めと捉えられても不思議ではないのかもしれませんが、そう結論するには少し早すぎるようです。
悟りそのものを文章で説明するには相当な無理がありますが、どうやら、納得することを悟りと勘違いされているご様子。
悟りと納得は全くの別物です。
まして、悩をだますとか諦めるというのは納得すらしていない状態のことを言います。
人は納得すれば心が落ち着きます。
一度納得した事柄は、二度と表には出てこないものです。
二度三度出てくるものは、それこそ諦められないものに言い聞かせて悩をだましたものです。
脳をだます、あきらめる。どちらも悟りとはほど遠いものです。
お釈迦様は「中道」をお説きになりました。
説明が難しいのですが、簡単に言えば「どちらにも偏らない」というような意味合いです。
ありのままを受け入れるというのも、ありのままが偏っているならば、「このままでいい」ということとは全く違います。
お金も容姿も将来も、何かと比べるから不幸と感じ、無い物ねだりから苦痛が生まれるからこそ、まず、ありのままを受け入れるところからはじめましょうというだけのことで、単なる最初歩の通過点に過ぎません。
まず、何事にもニュートラルになることからはじめてみては如何でしょうか?
諦めとは違います
諦めと悟りは違うものだと思います。
諦めというのは心のどこかでまだ我慢が残る状態、どこかで無理が生じている状態ではないでしょうか。
欲望も満たされてはいけない、腹八分でやめておく。そこが、さらなる欲望を持たせないための工夫のように思います。
悟っている状態は我慢しているわけでもなく、諦めているわけでもなく、そのままに受け入れている状態だと思います。自我が存在しないのです。自分がないから、諦めもない。
是非実践してその道を探求してみてください。
悟り(諦め・明らめ)と断念は違う
悟り(諦め・明らめ)は、本当に欲しくなくなること。つまり、満ち足りて不満がなくなることです。
これに対して、世間でよく「あきらめ」と言われてるのは、断念すること。つまり、本当は欲しいのに寸止めする、みたいなことでしょう。
悟りは、本当に欲しくないんだから、断念でもやせ我慢でもないんです。
子供が欲しい欲しいと言うようなものでも、大人になれば欲しくなくなってるものがあるでしょう。
じゃあ、その大人は不幸でしょうか?
そんなことはないのです。
悟りとは、究極の大人になることではないでしょうか。
悟り=仏様の境地
浄土真宗の立場でお答えします。
悟りは仏様の境地なので、人間が体得することはできません。
「成仏する」=「悟る」ということなので、悟ったけど仏にはなっていないということはありません。
そして悟り(仏)は不退転であり、たまに悟ってまた普通の人間の思考に戻るということもありません。
諦めは人間の普通の思考です。
それと悟りは全く違います。
「諦めと悟りはどう違うのか?」と問われたならば「人間の考えと仏様の考えだから比べようがない」としか言えません。