「学校へ行かない」という考え方
こんにちは。
初めて相談させて頂きます。
私は近畿地方で不登校児やひきこもり児などをメインにした家庭教師の副業をしております。
多くの生徒は、それぞれイジメや人間関係に悩み、さまざまな理由で学校へ通うことを拒否、あるいは否定的に捉えており、課題は山積みです。
ほとんどの場合、学校や教師の方々、生徒のご家族は「学校へ行ったほうが良い。少しずつでも良いから」という標準的な考え方のもと、彼らを見守っています。
私も、もちろん学校へ通うということは大切かつ重要な思春期の活動のひとつだと考えておりますし、指導する生徒たちへは前記の通り「ちょっとずつ、自分自身で」をベースに、学校へ復帰することを促しています。
しかしながら、私自身は中学校へも高校へも行っておりません。
過去人間関係に躓き、学校そのものが嫌で嫌で完全な不登校状態に陥っておりました。
その後大検に合格し、人より少し遅れて大学へ進み、なんとか人並みの人生を送れているように思います。
そして何の因果か、かつての自分のような生徒たちにアドバイスするような立場になってしまいました。
なので私は自身の経験からも、不登校支援の標準的考え方である「学校へ行く」ことだけが答えではないと考えるようになりました。
どうしても学校が嫌いだ。行きたくない。という生徒に対し、「それでも、ちょっとだけでも」と薦め続けるよりも、むしろ「行かなくても良い。その代わりに」という代案を提示するのも手ではないか、と思うのです。
ですがそれは、セオリーに反します。
あくまでも十代は学校で生活し、同年代との経験を積み重ね、そして社会への階段を登ってゆく……これが、やっぱり理想形です。嫌なことはあったけど、今はなんとか通えてる。これからもぼちぼちやってけそうだ。それくらいが一番のハッピーエンドなのは明白です。
しかし延々と「行きたい」「じゃあ行こう」「やっぱり嫌だ」のいたちごっこを繰り返す子には、「では、行かないというのはどうか」という提示もありなんじゃないか……。
まとまりの無い文章で申し訳ありません。
端的に申しますと、狭い世界で心を閉ざしてしまった十代の人間に学校という場所、学生という身分を外れ、違う歩き方もありなんだよ、と教えてしまうことについて、みなさまのご意見を賜りたく存じます。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたの意見に賛成
おはようございます。
私はあなたの意見に賛成です。
あなたは、不登校だったけど、大検を受け、大学の試験に合格し大学生になった。素晴らしい経験をされました。よくがんばりました。
その経験を、親御さんにお話しして、「無理に行かせなくてもいいんだ」という考えになってもらえれば、親御さんの気持ちも、ご本人の気持ちも安心すると思います。
文部科学省は、この9月、「不登校を問題行動と判断してはならない」という見解を含む通知を出しましたが、不登校生徒に対する支援についてはまだまだ未整備です。あなたのように、元不登校の方が、不登校の生徒を支える家庭教師となっているというのは、とても良い活動であり、親御さんとしても心強いでしょう。模範として全国に発信していただきたいものです。
もちろん「大検を受けて大学を目指す」だけではない。学校に行くだけが道じゃない、他にもたくさんの道があるんだ、不登校でも夢いっぱいなんだ、という事を示していただきたいです。あなたの指導はとても良いと思います。応援してます。
環境が全てではない
はじめまして。亀山純史と申します。
私は普段、学校教育に携わっている者ですが、教育において環境が全てではないと思っています。学校にどうしても馴染めない子を、無理やり学校生活に入れさせても、実りある教育は出来ないでしょう。
病に苦しみ29才の若さで亡くなられた村山聖という将棋の棋士の人生を描いた『聖の青春』という映画が、現在、上映されています。(文庫本でも出版されています。)病に苦しむ人生は、決して歓迎されるべきものではありません。しかし、村山聖九段の人生(環境)が、もしも、病に苦しむものでなかったならば、彼は将棋に出会うこともない一生を過ごしたと思うのです。仮に将棋に出会うことがあったとしても、村山聖九段は誕生しなかったと思います。
人はともすると、環境のみを重要視します。教育であれば学歴、学校歴です。どこの学校を卒業したかのみに関心をもってしまいがちです。しかし、大切なことは、それぞれの環境でどう生きてきたか、ということではないでしょうか。
以上が私からの回答です。ご参考になさってみてください。
人は自由な存在
人間は本来とても自由な生き物です。人間が決めた決まりの中では学校は大切な場所であります。しかし、それ以前に考えの及ばないところで私たちは生かされ生きています。命の働きとして自由な存在です。
それを人間が決めた枠の中に収めているわけですから、受け入れられない人が出てきても当然な訳です。しかし、そこに問題を起こすのはジブンという存在です。そこで大切なことは自己を究明することになります。そこを学ばず知識ばかりを教える教育についていかなくなる子供は多くいます。
ネバならない。という思考は人間の作り事です。本来もっと自由なのです。学校に行かなくても知識は増やせる。しかし、人との交流は学校のような場が必要であります。
色々言いましたが、その子が今できることをするしかない、その方向性として頑張れば学校にいけるというなら行けばいい。しかし、自分とは何なのかそれを学ぶ方向性を示すことが大人のつとめとなると思います。
そこは禅によりまなぶということになるでしょう。