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仏教に依存するのは、よくないことですか?

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先日は客観的かつ優しさに溢れたご回答を、ありがとうございました。
辛さがぶり返した時に読んで励みにしています。
泣いてばかりの時もありましたが、今はとにかく前に進もうと、転居の準備を進めています。

hasunohaで、自分と似た悩みを抱えた方へのご回答を拝見するうちに、仏教のことがもっと知りたくなりました。
そして、生き方など普遍的な悩みを持つ方へのご回答や、人生を穏やかに過ごすヒントになるようなご回答を探して、読むようになりました。
いくつかは画面を保存させていただいて、時々読み返しています。読むたび、少しほっとします。
読書が好きなので、お坊様の書かれた本や、手塚治虫先生の「ブッダ」を読んだりもしました。とても感動し、腑に落ちる内容でした。

ありがたい教えに触れているうちに、私の今までの人生は、執着と寂しさにまみれていたと気づくことができました。
手に入れたいものが多くて、ガツガツ努力して、認められても不安で、環境を恨み続けて…という生き方に、疲れている自分を見つけました。

お坊様のお話に触れているうちは、一人でも生きてていいんだよ、無理しなくても大丈夫だよ、と言ってもらえている気がするのです。

凝り固まった考え方が、少しずつ変わりつつあるのを実感していますが、同時に、私は仏教や、お坊様の教えに依存しているのではないか?と不安が出てきました。

日常でも、人と接する時、フッと辛さが出てきた時、仏教の事を考えます。皆様のお言葉を思い出して心を鎮めています。
他にも書店で関連の本を探したり、近くのお寺を探したり、ネットで用語を調べたり、日常の中で仏教のことを考える時間がかなり増えました。
仏教を知ることで、自分が救われる気がしてならないのです。

周りからの評価や、恋人の存在に依存していたのが、仏教に依存先が変わっただけなのではと思ってしまって、お坊様のありがたいお話を読んでいても、苦しくなってしまうんです。

仏教の考え方に依存するのは、いけないことでしょうか。執着にあたるのでしょうか。
長くなってしまい恐縮ですが、ご教示いただけますと幸いです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教に依存はありません

私ども僧侶もなにも仏教というものに依存はしていません。
人間の本来の様子に安住しているだけです。
その人間の本来の様子を探すヒント、道しるべとなるのが仏教です。
仏教とやらを言葉の上や思想でよりどころとしたら、それは仏教依存になり得るかもしれません。
ですが、それは正しい学びの姿勢とは言えません。
世間ではお釈迦様は仏教の開祖と言われていますが、その観点はちょっと1ミリ、ズレていると私は感じています。
ある一人の人間がとことん自身の人間的、能動的、自発的な働きを完全にやめて過ごしておられた。
すると、その人は、自身の本来の様子に目覚めたのです。
その様子は、大変安らかで、自分自分したものが何もないので何物にも依存している状態ではなく、しかもそれでいて大変安らかである。
その方がお釈迦様。仏教なんてものに依存しているのではなく、自身の本来の様子に安住されておられるのです。それこそが仏教です。私どもは文字文言としての仏教を学ぼうとします。原点のお釈迦様の姿勢を学ばなければ仏教という学問を学ぶことになり、外の事を学ぶような姿勢になります。
お釈迦様は仏教とか言う外の事を学んだのではなく、この自分自身の本来のありようを仏教という教科書なしに見出されたのです。そういう姿勢で仏教を学んでみてください。あなたの怖れる仏教依存なんてものはないことが分かるはずです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

言葉の綾

珍しく結論から書きますが、「どうぞ依存してください」です。
よく、「世界では自分の宗教を尋ねられる。無宗教なんて答えるのは日本人だけだ」という話を聞きますが、貴女の分析だと、「世界中の人は、たいがい依存している」という事になります。
それが何か問題でも?(^ ^)
つまり、「彼氏に依存している」のと「仏教に依存している」のは、その対象の質が違うのです。殊に仏教においては、聞いたことがあるでしょう?「自灯明法灯明」のお話。「自分は自分を頼りにせよ、という教え」に依存している…これだと良く分からない?「仏教の教えを学び、実践する事によって自らを整えよ。その自分を頼りにせよ」と言っているのです。「他人に頼りきり」というイメージは全くありません。独りよがりでもない。
他の宗教でも、まず「自分を律する事」は求められます。貴女がイメージする「依存していない」状況とは、実は無法地帯のワガママっ子ではありませんか?
言葉はデジタルなので微妙なニュアンスは削り取られてしまいますが、「甘え・甘えられ」「頼り・頼られ」を縁に従って役割交代しながら行くのも、「依存」でしょうか?
という事で、「依存」という一言で十把一絡げにしないほうがいい、というお話でした。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

「自灯明 法灯明」

みどり様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

仏教への帰依のお心、誠に有り難く尊いことでございます。

「依存」と申しますと、全てのモノ・コトというものは、他に依(縁)って成り立っているということを「縁起」と申します。

他に依らずに、つまり、他に依存せずに、独立自存の実体として成り立っているものが無いということを「空」として説明致します。

「全ては、縁起し空である」ということになります。

ですので、仏様の教えというものも、当然にそれに依存することによって、学び修することができますので、仏法に依って、しっかりと己の生き方をより善くに調えていくことが大切となります。

しかし、依って成り立っているものは、仏様の大切な教えであっても「空」であり、当然に実体視して執着することはできません。

難しいことですが、是非、これから仏教を学び進めて頂く中で、「空」と「縁起」についてもご理解を深められてみて下さいませ。

とにかく、悟り・涅槃へと向けては、「自灯明 法灯明」として、しっかりと取り組んで励んで参りたいものとなります。

共に頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

丹下様 佐藤様 川口様

ご回答ありがとうございました。
お礼の前に、ひとつお詫びをさせてください。
私の質問の書き方が、僧侶の皆様が仏教に依存しているという指摘のようにとられてしまいましたら、そのような意図はありませんでした。
もしご覧になった方で、嫌な気持になられた方がいらっしゃいましたら、申し訳ありませんでした。

丹下様
「依存はありません」と言い切っていただけて安心致しました。
仏教を、言葉や思想として知るだけの状態と、お釈迦様が目覚めた状態との違い、難しいお話でしたが、少しわかったような気がします。
仏教を学んでいくには、今まで取り組んできた勉強や仕事とは、異なる難しさがあると感じました。
お釈迦様の姿勢を見習って、人間としての本来の様子を見つけられるよう、精進いたします。
まだまだ先は長いですが、焦らず取り組んでいきたいと思います。
ありがとうございました。

佐藤様
「世界中の人はたいがい依存している」とのお言葉、仰るとおりだと思います。改めて考えさせられました。
たしかに、しっかり安定して見える方でも、自分ひとりの考えだけで生きてるのではなく、その方が無宗教の日本人だったとしても、かならず何かに影響を受けているはずですよね。
「依存」と表現してしまったのは、今まで周りとそういう関係しか築けなかった自分がいました。
バランス良く頼り・頼られ、甘え・甘えられる関係を築けるようになるため、自分を律することができるよう、励んでいきたいと思います。
ありがとうございました。

川口様
全てのものは関わりあって、自立しているものはないという教えを、この質問で使った言葉で表現すると、“全ては意思とは関係なく、依存しあっている”ということになるのでしょうか。
一人になり、自立しないといけない、と焦る心が少し楽になりました。
ありがとうございます。
「全ては、縁起し空である」とのお言葉、圧倒的なスケール感で、飲み込むのに時間がかかりそうです。
ゆっくりお言葉の意味を噛み締め、理解を深めながら、善い教え・善い縁起に依ることで、生き方を調えていけるよう励みたいと思います。
ありがとうございました。

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皆様のご回答がとても深い内容で、理解が追いつかず、お礼の文にも誤解を招くような表現がありましたら申し訳ありません。
佐藤様の仰るような、言葉における微妙なニュアンスの難しさを痛感しております。

何度もご回答を読み直し、お礼の文を推敲しながら、仏教を学ぶというのは、理屈や理論で完結するものではないと、ようやく分かりました。
仏道の入り口に立ったような気がいたします。
これからの人生では、お釈迦様の教えを道標に、今まで見えなかったものを、見つけてみようと思います。
長くなりましたが本当に、ありがとうございました!

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