ふとした優しさに。
電車に乗ったのですが車内で、ふと辛い事を思い出し涙が出ていました。
知的障害の女の子が私に、にこりと笑いながら私の手のひらに飴ちゃんを握らせてくれました。つめたい涙ではなく、あたたかい涙に変わりました。
お坊さん方に「人間失格」と言われたくなくて黙っていたのですが正直に申し上げますと、このhasunohaの「有り難し」は見られた方が興味本位で見て押したとしか思えませんでした。だから「有り難し」の件数が多いほど心がチクチクしていました。
どこかで悩んでる誰かが私の問を見てくれて「お坊さんはなんてお答えになられたのかな?」って思い「あぁ、なるほど。そういうアドバイスになるんだ! そういう救いの御言葉になるんだ! 有り難い!」そう素直に感じられない自分に戸惑いがありました。
その中で今日、出会った女の子の優しさに「あぁいう生き方をしたい」と思ったのですが。
今さら、どうしたら良いのか分かりません。
どうしたら、素直に生きられるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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物語は脳の仕業
人間は、物語が好きだそうですよ。昔話とか、そういうのばかりでなく、「この目に見える現象は、こう言った脈略があって、こういく流れの中で出てきたのだ」っていう、「他との繋がり」ね。でもこれ、脳が専門の先生によると、「そうした方が脳としては処理=判断しやすい」のだそうです。五感では物事の全体像を掴むのはなかなか難しい。けれど対応しなければならないものだから、「全体像」を想像で補うのです。その補足部分が「物語」です。
今回の話では、「興味本位で押したのだろう」というところです。でも実際に起きているのは、数字が変わっているだけ。興味本位の人もいるでしょうし、「あぁ有り難い」と感じた人もいるでしょう。あえて言うなら、英語の「I moved」感動というほどでなくても、何かを感じさせた、その辺りだろうと思います。
貴女の涙を見た女の子は、「このお姉ちゃん、悲しいことがあった」と思ったのでしょうか?「お腹減ったのかな」と思ったのでしょうか。はたまた言葉なく「あげる」気になったのでしょうか。それは分かりません。
だから私は思うのです。大切なのは、「しようと思った時に、それをすればいい」と。押し付ける必要はありません。相手は「飴アレルギー」かも知れないですから(比喩です)。
貴女も、「あっ」と思ったら、押していいのですよ、「有り難し」ボタン。
質問者からのお礼
佐藤 良文 様
いつも有り難うございます。
「本当に最低なヤツだな」と100%返ってくると心していたので意外でした。(もちろん、どなたがご回答頂いても、という意味ですよ)
最後の2行が特に心に響き「私、いてもいいんだ」と思いました。
佐藤様、助けて頂いて有り難うございます!