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苦しみと共に生きる

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自死で彼が逝き1年3ケ月ほどが過ぎました。
当初ほどの焦燥感や不安定さはなくなりましたが、
自責・罪責はなかなか消えません。

苦諦と言う言葉がありますが、私は苦しみとともに生きていくしかできません。
坐禅にも取り組んでますが、終わったあとはとても苦しいです。
辛く悲しいものが湧き上がってくる感じなのです。

こんな私はどのようにして苦と向き合っていけばよいのでしょうか。
決して解放されたいとは望んでいないのです。
勝手に一人で苦しい、苦しいと言いながら生きてけばいいのでしょうが、ただ意識だけははっきりさせておきたいのです。
どうかするとすぐに死の世界に入ってしまいます。

私は本当に無知でした。何にも分かっていませんでした。
自殺は追い詰められた末の死だと言われますが、
間違いなく私が彼を追い詰めました。
もしかしたら生きる道を探していたかもしれない彼の邪魔をし、最後のスイッチをを入れる決断を促してしまったと思っています。

こんな私が生かされております。生きていなくてもいいのにです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人に憑りつくものがあるとすればそれは自分の想念

彼が亡くなってしまったこと、自死を選択してしまったことは本当に残念なことですが、それはそれで彼の尊厳です。自死を選択するほど、苦しかったのでしょう。それは彼の意志。彼の選択した意志をあなたが、受け止められずわたくし視して、ずっと自分を責めている。それはある種、自分が悲劇のヒロイン状態になってしまっているのです。
厳しいことを申し上げますが、あなたの自己中心的な執着を自覚させ、それを捨てさせるためです。
人は自分の自己中心的な想念で苦しみます。
彼がいなくなったという事実は事実です。
ところがあなたは、その事実を抜きに、自らを中心とした考えの中で様々なストーリーを描いてしまっているのです。それこそがあなたを苦しめています。
あなたは無自覚ながら彼の死後も盛んにあるアクセルを全開で踏み続けています。
そのアクセルとはある種、自分自分した自己の想念アクセルなのです。
踏めば踏むほど考えが展開する。
坐禅をしているようでも自分の想念をやっているだけでしょう。
多くの人は坐禅をしながら坐禅をしていません。
坐禅になっていません。
坐禅とは優れた指導者無しでできるものではありません。
正しい坐禅によって自己の真相を明らめた指導者、正師のもとで坐禅をせず、ただ自身の考えの上で誤った坐禅をしていくのであれば、しない方が良いでしょう。
本当に正しい坐禅になっていれば、あなたのような症状にはならないからです。
要は、指導者無しの坐禅は、坐禅の格好をしながら自分の想念を盛んに働かせるばかりで坐禅の要点をまるでやっていないことになるのです。
坐禅とは座る禅定が終わった後こそが坐禅だからです。
坐禅によって滅私された無我なる心が相続していなければ坐禅になったとは言えません。
そうでなければいつまでも自分をやっているだけ、自己の想念を展開させているだけなのです。
あなたはせっかく坐禅をしながらも、やっておられる坐禅は坐禅の格好をしながら考え事をしているだけであると思います。機会があれば当山にお越しください。
もし、私が死んだ彼氏の立場であったら、あの世からこう眺めることでしょう。
「ああ、私の死後も、この人は、ずーっと自分をやっている。」と。
苦しみと共に生きると仰いますが、それすらもあなたが打ち立てている自己流のモノの眺めなのです。
事実は人を責めません。自己の想念が人を苦しめるのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「苦しみと共に生きる」は「彼と共に生きる」ということ。

はじめまして。亀山純史と申します。
ジョンさんのご質問(ご相談)のタイトルの「苦しみと共に生きる」の「苦しみ」は「彼」のこと、つまり、「苦しみと共に生きる」は「彼と共に生きる」ということだと思います。つまり、もしも、苦しみがなくなったら、彼のことも一緒に消えてしまうと思うのです。
「苦しみ」が強いほど、そこに彼はいてくれます。そして今、あなたに出来ることは、死を選んでしまった彼の最良の理解者になること。そして、その人の名前を呼んであげることです。しかし、理解しようとすればするほど、あなたは自責に苦しむことになるかもしれません。また、名前を呼べば呼ぶほど、悲しみが増してくるかもしれません。でも、その苦しみ、悲しみの中に、彼は間違いなくいてくれています。
私自身、僧侶として葬儀場で、火葬場で、「お父さん、お父さん」と呼び続ける人、亡き最愛の子の名前を呼び続ける人と出会います。その人は、亡き最愛の人の名前を呼び続けることで、その最愛の人と出会っているのだと思うのです。
以上が私からの回答です。ほんの少しでも、お役に立てれば幸いです。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。

丹下様:「自己中心的な想念」「自分自分した自己の想念アクセル」、、、その通リです。痛いです。そこから抜け出したくて坐禅を試みました。最初は坐禅会にも行っておりました。坐禅に関してはまた一からやり直します。よろしくお願いいたします。

亀山様:彼と共に生きる…そのように表現して下さりありがとうございます。苦しいのは当たり前、苦しみを滅したらいけないとの思いがあります。まだ彼の死を理解できていない、いや理解しようとしてないのかもしれないですね。

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