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本当の自分とは何か、自分の気持ちに正直になる

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有り難し有り難し 28

こんにちは
質問させていただきます。

私は周りの人から、「本当の自分が出せていない」「殻をかぶっている」「言葉を選び過ぎて本音が見えない」等の言葉を言われました。

私が言葉を選ぶのは、気持ちを伝えるのが下手でトラウマもあり誤解を受けたくないという気持ちから、言葉を選んでしまいます。
それでも言葉を間違えて落ち込むこともありますが、私は言葉を選びますが、自分の気持ちを伝えようとしているだけで本音を言っているつもりです。

本当の自分が出せていないと言われても、どういう私をみてそう思われたのかは分かりませんが、わざと自分を作っているわけではないので、どんな私も本当の私だと思っています。

ですが、どんなに伝えても理解されません。

時々自分が何なのか分からなくなります。

友達から小さい頃から気持ちを我慢してきたから今の自分の気持ちとかをそのまま家族や人にぶつけるようにすると何か変わるかもよ。と言われ、我慢をやめて見ましたが、やっぱり伝え方が下手なのか、周りや家族からも浮いてしまった気がします。

本当の自分、自分に正直に生きるとはどういうことなのでしょうか


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

オプションを相手にしないこと

それに関しては次のように念ずると良いでしょう。
ファーストフード店で何かを注文すると店員さんがもっと買ってくれと言わんばかりに次のように話しかけてくるものである。
(^-^)
「他にご注文はいかがでしょうか」
「サイドメニューはいかがでしょうか」
「オプションに◉◉もいかがでしょうか」
「ドリンクはいかがでしょうか」
 (^-^)   (~_~;)
友よ、私は貧乏で金もないのでそういう時、ただ只管に「単品」を貫くのである。
この時、心の中ではもちろん店員を気遣う気持ち「オプション(付随想念)」が無数に出てくるのである。
(´-`).。oO「あー、この感じはもっと頼めって言っている。」
(´-`).。oO「いやー、嫌な客だと思われるだろうなぁ。」
(´-`).。oO「うー、もっと頼まなきゃ悪いかな・・・。」
(´-`).。oO「ええ、そうでしょうね。ケチな客だと思われているだろうなぁ。」
(´-`).。oO「おー、やっぱりかい。」
まさしく、その通りである。
ところが、これらは私自身の自己内オプション想念である。
その通りであっても無くても、貧乏人の私は貧乏と貧乏根性が真実である。
故に単品を貫くのである。
誰があんな原液を水道水、炭酸水で薄めたほとんど氷のドリンクごときに、この住みづらい日本、高いお金を払ってなるものか。セットで740円だと?写真と大違いな保存料たっぷりなハンバーガーにぽていと、と飲み物でかぃ。高い。高いとしか思わぬ。
牛丼なら2杯いけるわい。ラーメンの方が同じ740円でも充実感があるわい。
…と阿僧祇劫(実際5秒くらい)のなか、マーラたちの誘惑をすべて撃破し、心の中の無駄な「オプション」すなわち「付随する要らぬ想い」を全く相手にしないのである。
かくして、私はあらゆるオプション的な想念、妄想、付随する要らぬ思いを一切相手にせず、単品と店員のスカした態度からなる出来立てのバーガーを手にして店を後にする事常の如し。
このように、あなたはおそらく人と接する時、イイ格好をしようとか、かっこ悪い所を見せまいとしたり、色々な想念をオプションとしてポンポン生みだしているのです。しかも、それを相手にしているから現実がどんどん流れて行っちゃうのです。
思ったことはその時言わないと、いう事はできません。
自分のオプションに打ち克つことをテーマに御修行下さい。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

大変遅くなり申し訳ありません。
ご回答ありがとうございました。
何度も頂いた回答を読み直し、いろいろ考えました。
自分は自分で、人の求める人間になる必要はないですよね
大切なことを忘れていた気がします。
自分らしく頑張ります。
ありがとうございました。

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