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「きれい」を受け入れられない

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私の友人に会った時、母が「きれいな子ね」と言いました。その言葉が少し気にはなっていましたが、時間が経つにつれ恨みへと変わり、結局年老いた母に手をあげてしまいました。

私は以前会社勤めをしていたのですが、営業の部署で男性が多く、事務の私は可愛がってはもらっていましたが、いつも聞き役でした。
「友達の○○ちゃんかわいいね」「あの子は目の保養になるね」「今度飲み会呼んで来てよ」
自分の体調が悪い日も、ニコニコ聞いて友達を呼びました。

会社を辞めた後、自分では頑張って我慢もしてやり切ったつもりでした。
しかし… その傷は癒えることなく、時間が経つにつれ更に深くなっていきました。
最初は、友達のことを「きれい」と言われることが嫌くらいでしたが、今はテレビの女優さんを見て誰かが「きれい」と言うことすら耐えられず、「きれい」が自分の中で絶対受け付けられない禁止用語になっています。

旦那は気をつけて言いませんが、母がつい言ってしまった時など、必ず手をあげてしまいます。
私の前で誰かのことを「きれい」と言う人は、死んでしまえと思ってしまいます。
苦しいです。助けてください。どうすれば、この頭の中を切り替えられるのでしょう…


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

言葉は言葉のまま

それはあなたが、その言葉ではなく、そこにあなたの自分勝手な捉え方をしているからです。別にあなたと比べてどうこう言っているわけでもないのですから。

例えば、ラーメン好きな人が、友達のオススメのラーメンを食べて、それをすきになろうと、すきにならなかろうと、どっちだっていいわけです。好みは人それぞれ。それを自分に合わせようとさせたり、自分を常に一番にさせようとする心の動きは危険です。

まずは、あなたのエゴでそのような感情が生まれていることを知りましょう。そして、人から言葉を聞いたら、その言葉を素直に受け入れ、そこに意味を加えたり、比較するような動きはせずに、そのままで終わらせることです。思いの付け足しは、真実を歪めることになりますよ。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

それは苦しいですね。

かつて私も嫌な「ワード」がありました。
正確に言うと、今も抜け出せない場面があります。

たぶんと言うか、他の人なら大したことない言葉です。
なんせ友達に相談しても、そこまで気にする必要ないと言われますし。
でも、自分からすれば、しょせん他人事だよなって思います。

私からすれば、あなたの禁止ワード、そんなに気にしなくてもいいのでは、と思いますが。
ロンタンさんにとってはとてもキツイ、攻撃的な言葉ですよね。

結局は、人の言葉で、その「ワード」を受け容れる事など到底出来ません。
自分自身で解決しなければならないのでしょうね。

その部分は、他者が変える事などできませんので。

あなたがその言葉に傷つく理由は、劣等感からきています。
私もそうです。

人と比べて劣っていると感じてしまうから気になり傷つくんです。

軽く書きますが・・・

ということは、人と比べなけりゃ、気にならないわけですよね。
自分を客観的に見るように、思考を変えると。

私があなたに「そこまで気にしなくても」と感じるのは、ロンタンさんを客観的に見ているからです。
他者ですので。

私は劣等感と4年戦っています。
徐々にですが、私はその言葉を軽く感じられてきました。

他者にはあなたを癒せません。
あなたの苦しみを心の底まで理解しきれないからです。

ご自身で変えるしか解決できません。

どう表現していいのかわからないですけど、、、
ご無理なさらないで下さい。

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おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいったい何か?と、考えています。 僧侶としての根本は、朝のお勤めだと考えております。 週に2回、お寺で空手教室を開いております。 近隣の子供たちに、礼儀作法を伝える。 これも寺院の持つ役割である、地域貢献に繋がると、少なくとも私はそう思い、精進しております。

大丈夫です。あなたもキレイな方なのです。

あなたはとてもキレイです。
純粋なキレイな心をお持ちなのでしょうね。
お世辞じゃないので疑わずに受け止めてください。
そもそもキレイという言葉だって本当は悪くはないです。
直接会ったことないのに何を、と思われるかもしれませんが、実際、正直で純粋な方であろうとお見受けいたします。
ご質問内容もご自分のされた事を正直に書いておられますから隠し事の無い正直で心のキレイな方であると思います。
ですから、私はあなたにさらにもっと「キレイ」になって頂きたいのであなたに、
「✨あなたはキレイです。✨」
という言葉を贈ります。
今後もそこからブレない様に、身も心もキレイ&ピュアでいてください。
よって私があなたにキレイという言葉を使う事だけは怒ったり死んでしまえとか思わないでください。
せっかくのあなたの綺麗な顔と心がキレイでなくなってしまいます。
私からあなたに「あなたはキレイだ」という言葉が向けられた感想はどうでしょうか。
誰かと比較したり、裏を読んだり、深読みせず「その通りに」受け止めれば、何の害もありません。
キレイという言葉は、美しさをあらわす言葉の一つですね。
「カワイイ」みたく「いいね!」「❤」「好印象」という意味にもなると思います。
表面的な美人は整形すれば美を❝装う❞事はいくらでもできるのです。
見た目「美人」と心の「美しい人」とは、大きく異なります。
心のキレイさをさらに磨けば、その美しさは失われることがありません。
「美しいものをみて美しいと思えるあなたの心が美しい」という言葉がありますが、
最初から誰がどうみても、絶対的に美しいというものがあるのでありません。
どんな美人も名画もそれを見る人の心が病んでいれば、まがって見えてしまうものです。
どんなものにも、どんな景色にも、どんな人にも、どんな言葉にも、そのものの真実や良さをみて、その通りに受け止める心こそが美しいのです。
そのものの真実とは、キレイやキレイではないということすら超えた、ありのままの様子。人間御見解=思いはからいを離れた眺めです。
あなた自身がものを眺める時の心のキレイさを磨く為のきっかけと致しましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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