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父の死

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10年前に、大好きな父が胃ガンで亡くなりました。

病気が発症した時にはすでに末期で本人にも告知してありました。唯一の治療として少なからずの延命で抗がん剤治療、あとはひたすら痛みを取ってあげることしかできませんでした。

死期が近くなるにつれ、痛みも強くなり、モルヒネの量も多くなりました。

私は、一人っ子で両親にたくさんの愛情をもらい育ててもらいました。時に厳しく叱ってもらい、時にはたくさん遊んでもらい、自分が大人になっても仲良しでした。

父がモルヒネの量が増えるにつれ、私が毎日、面会に言っても副作用のせいで、誰だかわからなくなってきていました。もちろん、私だけではなく、母にも妻という認識も薄れてきていました。

私は仕事柄、医療従事者なので、父が告知を受けた時から死期をどう迎えるか、どう向き合うか、覚悟はできていました。

ある日、父がモルヒネの副作用で暴れたことが一度ありました。

私の胸ぐらを掴んで、死期が近いとも思えない力強い力で殴ろうとしたんです。

私は、今までそんな怖い父を見たことありませんでした。

もちろん、副作用で私が娘だと認識はもぅできてませんでした。

聞いたこともない汚い言葉を使い、私を罵り、、、

副作用が言わせてると頭では理解できてたけど、やっぱりすごくショックでした。

それが父との最後の会話になり、父は旅立ちました。

10年たった今でも、父が暴れたことが忘れられなくて、本当は副作用ではなく、私に対する憎しみの、表れだったんじゃないかと思っています。

もし、憎しみであれば、わかってあげられなかったことを謝りたいと思っています。

10年の間、ずっとモヤモヤです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

父の恩は山より高く、母の愛は海より深し

由美子姫さんへ

未だに引きずっておられるという事は、
10年前とはいえ、大変なご経験をされたのですね。

私は、医療の事は全く分かりませんが、
モルヒネは、患者さんの痛みを和らげる効果と反対に、相当強い副作用があると聞きます。

表題にも書きましたが、
『父の恩は山より高く、母の愛は海より深し』
と言います。また、
「親思ふ心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん」(吉田松蔭)
(子供が親を思う気持ち以上に、親が子供を思う気持ちがはるかに強く深い。)

親を恨む子供があっても、子を恨む親はいないはず。
それ程、親心は、深く強い!

私の勝手な想像ですが、
お父様は、由美子姫さんに感謝し、極楽へ往かれたのではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

昭和43年、奈良県葛城市生まれ。子授け寺浄願寺の住職、鷲尾隆仁。 日頃は、法務に忙殺されていますが、 出来るだけ、お檀家さんや参詣者に寄り添い、愚痴や悩み相談される人になりたいと、常日頃思っております。 また、僧侶のかたわら、家事民事調停委員もしており、世間のドロドロにまみれております(>_<)

苦痛・怒りは誰にでもある

誰でも、心身の苦痛が大きいとイライラが爆発することがあります。
特にあなたを憎んでいたということではないでしょう。
しかし、苦痛イライラをぶつける家族が身近にいてくれたことは、ある意味幸福でもありました。
お父様は、最後の最後に、娘さんに甘えることができたのです。
他人にはそんな姿を見せたくなかったはずですし。
お父様は、モルヒネを使うまでは、ご家庭でそのような姿を見せなかったわけですね。
つまり、しっかりとした人格のお父様でいらした。
だからこそ、副作用のときのギャップを見て驚いたんですよね。
でも、それも人間の自然の姿ではないでしょうか。
普段から家庭で暴力をふるうオヤジも世間には多いなかで、あなたのお父様は副作用が出るまでそんなことがなかった。
立派な方だったのです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

ゆるすことは自分をゆるめる事

もしあなたが「私に対する憎しみの表れだったんじゃないだろうか」といわれるなら、お父さんに対して、どんな悪い事をしたというのでしょうか。
それを、もし、悪いと思うのであれば、お母さんに尋ねてみてください。
自分を責めることがあなたにとって苦しみになっていると思います。
たしかな根拠も無しに、自分を責める必要があるでしょうか?
殴ろうとしたというけれども、殴らなかった。
お父さんも、薬の副作用と戦ってあなたを殴らなかった、幻影を見ながらも打ち克った姿だったのだとみるべきです。
仮にもし悪い事をしてしまったなのなら、墓前で詫びるべきをお詫びし、お父さんが喜ぶような生き方をするべきです。
どうにかしてあげたかった。
だけど、当時の医療でも助けてあげることはできなかったのです。
あなたが悪い訳ではありません。
墓前で、話すべきを話し、つたえるべきを伝え、自分をゆるめ、自分の執着を緩めて、自分をゆるすようにしましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

きっと私が想像した以上に父には壮絶な治療だったのかと思います。

10年の間、ずっとこの思いを話せなくて辛かったけど、ようやくココロの荷物が降りた気がしました。

お答えをいただいて、読んだ時、涙が止まりませんでした。

父には、これでよかったんだと自分の中で区切りがつきました。

ありがとうございました。

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