私たちが存在している意味は?
私たちはなぜ存在しているのでしょうか。もっと言うと、この世界はなぜ存在しているのでしょうか。「無」ではいけない理由が分かれば教えてください。
中には、私たちのいるこの世界は魂の修行と言う方もいます。
そもそも、何のために魂は作られて、未完成だからと修行を強いられているのでしょうか。修行の先の目的が分かりません。
よりよい力を身につけて世の中の辛い悲しみを抱えた魂を救うために修行しているのでしょうか。
それならなおさら魂がある意味が分かりません。最終的にどこに行きついたらよいのでしょうか。もっというと、意図して私たちの魂が存在するなら、世界が「無」ではない意味を教えてください。全てが「無」ならいけないのでしょうか。
時間も、空間も、何もかもが「無」ではない理由です。
それとも、目的とか関係なしに魂というのがなんかの拍子に偶然世界にできてしまったから精一杯生きるんでしょうか。それなら解りますが、意図があるなら教えてください。
よろしくお願いいたします。
このあたりの事は仏教とは関係ないのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
分からないことは分からないまま、ありのままに向き合うのが仏道
お釈迦さまはお弟子さんにこのような質問をされ、「無記」という回答をしました。この手の形而上学的な議論は決して答えは出ないから、今の修行にはげみなさい。こういうのは仏教とは関係ありませんとキッパリおっしゃったということです。
なぜでしょう?それは当時からインド圏で支配的だったカースト制度への反発からだと言われています。カースト制度はこの手の議論を「俺たちは過去世の行いが良いから生まれながらに権力者。奴隷は過去世の行いが悪いから奴隷。まぁ、奴隷なりに頑張って来世以降でチャンスが巡ってくるといいね」という形で誘導していました。
これに対してお釈迦さまは「大切なのは前世じゃないでしょ!今をどう生きるかで人生の楽苦が生じるんでしょ!」と言って立ち上がったのです。その論拠となる思想が「人と動物の違い」のご質問で私が回答いたしました因果論です。
因果論はカースト側としては前世来世の輪廻論のことを指しますが、仏教側としては世界観です。ちょっと例えが限定的になってしまいますが、食物連鎖や水の循環のような世界の繋がり方を説明したものというイメージを持っていただいても間違いではないと思います。
>それとも、目的とか関係なしに魂というのがなんかの拍子に偶然世界にできてしまったから精一杯生きるんでしょうか。
う~ん…ここも語り出せば切りが無いのですが、私なりに赤を入れさせていただくとこうなります。
>目的とか関係なしに
→原因と結果の網が展開していって
>魂というのが
→自分という存在が「有るとも言える、無いとも言える」のが仏教の大前提
>なんかの拍子に偶然
→原因と結果の兼ね合いなので、必然か偶然か意見が分かれる。相対性理論が必然論者。量子力学が偶然論者。
>精一杯生きるんでしょうか
Yes,we can!! 仏教では自分自身が主人公です。
このご質問は実は「災害の意味について」のご質問に対する丹下師の「「わたくし」を中心としたビジョンを離れる」のご回答に直結しています。
>仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
他宗派の門徒さんにこんなに吹き込んでいいのだろうか…
まず人間ありきです。
indigoさん、こんばんは。
残念ながら、生まれた意味も、なぜこの世界が造られたのかも解りません。
無であって良いなら無であっても不思議はありません。
仏教の目的は,苦悩を除き仏と呼ばれる境地に至ることですから、修行中で未完成というのは,仏教的見地から言えば確かにその通りです。
しかし、修行するために生まれてきたのかと言えば、それは仏教的ではありません。
仏教は、既に人という存在がここに在って,ここに在ることが苦悩に満ちているから、それを脱却することを目的として、お釈迦様が残されたものです。
仏教は自我を見つめることを常とします。
魂という言葉をよく使いますが、仏教的には非常に馴染みの少ない言葉です。
一切の世界はみな、自身の観念による妄想より生じていると考え、そこに在ると観ずれば在り、無いと観ずれば無い。
その辺は、デカルトの提唱した方法序説の「我思う、故に我在り」と共通するところがありますね。
仏教の本質は、すべてを無にするところにはありません。
この世界が在り、万象が在り、苦悩があるところで、我々がどう生き抜くかを説くのであり、まず人間ありきなのです。
只管 何故という山を越えてゆこう
あなたの疑問の答えは、何故という求め方が間違っている事に気づくことで解決します。
今までのご質問と同様に、結果的に、ネガティブな考えにしか至っていません。
文学者や哲学者で自殺してしまうタイプの人は、知を捨てられなかったからと言えます。
知と最上のよりどころにしているから疲弊してしまうのです。
智(事実)をよりどころにすることが、救いになります。
ここは、1000字制限がありますので、埼玉ならば坐禅会にお越し頂ければ結論はすぐ出ます。知から智にシフトチェンジしにきてください。新しい世界が開かれるでしょう。
「何故」という疑問を超える最上の方法は「その❝何故❞に理由・言葉で答えようとしない」ことです。
事実がすでに証明しているからです。
言葉の前に、既に存在している目前の事実こそが既に最上の答えなのです。
ラーメン屋でラーメンを頼んで「このラーメンは何故にウマいのか?」と考えてみてはいかがでしょう。結論:ノビチマウッツノ。
思う前に、すでに目の前の真実世界がある。そして幼少期より、その世界を疑問なしに味わってきた。何の問題も無かった。
虚無だ、無だ、無だ、無だ、無駄ァ、と思いのペンキでペイント・イット・ブラックする以前に、元々世界はまっさらなのです。
哲学する方が何となくかっこいい感じがするので、私も若い頃は同じようにあれこれ理由付けを試みました。ですが、それは、ある時、答えの求め方自体が不健全であると感じました。
もともと、自分の理由付けの前に、考えのペンキによって、塗りたくる事は、この世と脳内を染めてしまうことです。
人間の存在も、木や川や動物が存在しているように、人間の理由付けの前に、人間の理由付けを超えて、ただ、そのように、その通りにあるのです。
あなたがやっている事は、シロクマに墨を塗ってパンダにしようとしている姿に近いものがあります。そのままのシロクマを味わうべきなのです。そうやって知のペンキ、思いの脚色ペンキでアレコレ塗りたくると、シロクマがみんなくまモンになっちゃいますよ。
白黒つけずにパンダのままでもいけません。
自分が、知の筆で手入れをする前の真実を味わうことです。お待ちしてます。
わかりません
まず、ありがとうございます。
あなたの質問を読んで、私は、毎日の仕事のこととかで悩んだりしていることに「なんて小さなことで悩んでるんだ」と改めて気付かされました。
大変スケールの大きな疑問ですね。
おそらく、お坊さんのほとんどが、一度は考えたことのある疑問ではないでしょうか。
しかし、残念ながら、その答えはわかりません。
「何のために作られた」と言うと、創造神みたいな意思のある者が目的をもって造ったかのように聞こえます。
しかし、仏教では創造神は説きません。
仏教では、「何のために何をするか」は私達が決めるのです。
そして、仏教が教えているのは、「悩み苦しみをなくすためにはどうしたらよいか」です。
悩み苦しみをなくすためにどう生きたらよいか、という疑問になら、仏教は答えてくれます。
それ以外のことは、仏教の管轄外かもしれません。
この世界が存在している意味
なぜこの世界が存在しているのか?
それはindigoさんが存在しているからです。
Indigoさんが存在しているのは、あなたが望んだ結果だからです。
この考え方は、大乗仏教の考え方の一つに唯識というものがあります。全ての事象は認識されるから存在している。というような考え方です。
Indigoさんが存在し認識しているからこの世の全ては存在している。
認識できない事象はこの世に存在していないのです。認識して初めて存在しているという状態になるのです。
現に今まで讃岐英昌という存在はindigoさんの世界には存在しませんでしたが、この文章をあなたが読んだ時に初めて私はあなたの世界に存在しているのです。
世界があるのはあなたの所為で世界が 無 ではないのは認識者であるあなたが存在し世界を認識しているからです。
しかし、認識されない事象は星の数ほどあります。そう考えれば、世界は 無 で出来ているとも言えます。
あと 修行はどこまですればいいのか ですが、気にならなくなれば取り敢えず終了でいいと思います。
雑な文章で解りにくいところばかりだと思いますが、少しでも助けになればと思います。
「無」で良いんじゃないですか?
それは世界を創造する神様の話
古事記や聖書を読まれたらそこらへんはよくわかりますね。
宗教によっては世界の始まりや命(魂)の誕生を明確に説いているものがあります。
でも仏教にはそのような経典はありません。※私が知らないだけかもしれませんが…
世界の始まりは「無始」というのが仏教の立場です。
始まりは無いとお釈迦様はおっしゃいます。
つまり遠い過去からずっと六道や真如の世界があるのだと。
「何故そうなのか?」と言われてもお経にのっていないのでわかりません。
ただし、分かる方法はあります。
それは自らが悟ることです。
仏になったら全て分かりますから、仏になる道を歩んでください。
成仏したその時に全て分かります。
勝義諦と世俗諦
indego様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「無」につきましては、最近にも下記問いに回答させて頂いております。
問い「無とはなんですか?」
http://hasunoha.jp/questions/1199
「無」でない意味、それは、この世界が「無」ではないからということになるのですが、もしも、「無」であるならば、当然に「無」ですので、何も生じず、何も滅せずとなるはずで、「無」のままのはずです。
しかし、そうではない現実が目の前にある以上は、やはり今のところは「無」では無かった(実体としての「無」はあり得ない)ということになります。
では、この世界は何だ、存在とは何か、となりましたら仏教では※「縁起」なるありようにて成り立っていると説明することになります。
また、「生きる意味」に関連するご質問も下記のようにこれまでにも多く頂いております。
http://hasunoha.jp/questions?tag=生きる意味
この中では、問い「生きていく意味」 http://hasunoha.jp/questions/93 では、「もし、生きる意味があるならば、生きる意味がない」と回答させて頂いております。
とにかく、ここで一つ言えますのは、仏教の考える究極的な真理のレベル(勝義諦)からは、「無」や「有」も、「生」や「滅」も、「意味」や「目的」なども(実体・自性・自相としては)無いのですが、世俗的なレベル(世俗諦)(世間一般において正しいとされていること)においては、確かに「無」や「有」、「生」や「滅」、また「意味」や「目的」なども「縁起」としてあり得ているものとなります。
このあたりの理解は、その前提として、しっかりと仏教を学び修することが必要となりますが、既に大慈様もおっしゃられておられますように、まあ、あまり議論しても仕方のないこと(無記)は、それとしておいて、「今」目の前にある現実、この現実を精一杯に、より善く正しく生きていくことが大切になるというものとなります。
※「縁起」には、主に三つの理解として、第一に、「原因と条件と結果における依存関係」、第二に「部分と全体とにおける依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによるという依存関係」がございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
大慈さま
なんとなくみえてきました。ありのままをありのままに。捉える事に本質が見えるのだとなんとなくですが理解しつつあります。ありがとうございます。
願誉浄史さま
ありがとうございます。
目的を求めるより、自分で意味を決める事が大切ですね。
小原観慈さま
ありがとうございます。
確かに生きるのに、それ自体には理由なんて要りませんね。