菩薩寺がない
我が家は菩薩寺がない状態です。
昨今は宗派を問わない民間の祭儀場があり、近隣住民もそこを利用しています。
末代の私が宗派変えを言い出したため、総本山で近辺の菩提寺を探してもらったのですが、檀家を取っていないとのことで、菩提寺探しに難航しています。
急ぎで法要や葬儀があるわけではないのですが、私自身が素人信者なため、経験の深いご住職や僧侶様の教えを頂戴したいと考えているところです。
教えを乞う、というのはおこがましいのでしょうか。素人仏教徒にとって必要なものは一体なんでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
色んなお坊さんに出会い、見識を広め、落ち着く処に落ち着く
法話会や坐禅会、各種講のようなお寺のイベントに参加なさり、その中でピンときたお坊さんと徐々に親交を深めていけば良いと思いますよ。いきなり「教えを乞う」とか「仏教の本質」という態度で話しかけられると、お坊さんも緊張します(笑)気軽に接していただければ幸いです。もちろんhasunohaもそのご縁になり得るでしょう。
その結果として、いつかこの人に送り出してほしいと思えるお坊さんに出会えれば、その方が菩提寺になってくれるでしょう。
あるいは私は家の宗派と、個人的な信仰を割り切るというのもお勧めしています。葬儀や年忌供養は親族の問題ですので、自分の思いがどうかだけではなく、皆が安心できる道を選ばねばなりません。それはお坊さんではなく、家族親族とご相談なされるべきことです。そのようにより広く思いやりを持って折り合いをつけることもまた、仏道です。
個人的な信仰については前述の通りですが、もっとこの人の教えに触れたいという人の追っかけをすれば良いでしょう。お坊さんもそうして学びます。
さて、仏教は本来、西洋医学よりも東洋医学に近いものです。つまり病気になってから手術や投薬で治すような方向性ではなく、食事や生活の習慣を調えて病気になりにくい身体を調える方向性です。
経典に残るお釈迦さまの教えも、「自分の行いを誠実に調えなさい。自分の心をつつしみ深く調えなさい。」と口を酸っぱくして何度も何度も何度も説かれているものがほとんどを占めます。
だから本当は、そのための菩提寺なのですよね。菩提寺との関わりが深ければ、法事でお坊さんの法話を聴きます。年に数回の大法要ではよそから招いたお坊さんから、菩提寺とは一風違う法話を聴きます。そして坐禅会や各種講のような実践の場で学びを深めます。それらを道標に、毎日の生活の中で苦を溜め込みにくい自分を調えていただきます。
お葬式や法事もまた、その学びの場であり、同時に実践の場です。仏教は生老病死の苦にいかに向かい合うかという生き方です。ご近所さんを送り、祖父母を送り、親を送り、兄弟や友人を送り、時に自分より若い世代を送る人生。その中で苦をどのような方向性で消化し、昇華していくか?生死の事は仏教の一大テーマですよ。死を学ぶのではなく、死に学ぶ。ただ、出来れば、どなた様にも死を最初の入口とせず、一連の流れの中で生死と向き合っていただきたいものですね。
「勧請」
Quentin様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏教をしっかりと学ばれたいというお気持ち、誠に大切なことでございます。
また、「教えを乞(請)われる」というのも、実はかなり大切なことなのです。
仏教は、基本的には、教えを求められる者に対してでしか本来説けない教えなのであります。
その有名な故事が、釈尊の「梵天勧請」であります。
菩提樹下にてお悟りを開かれた釈尊は、その悟りの内実に関して、涅槃の境地を静かに喜び、このまま更に深い禅定に入って、もはや再び迷い・苦しみの世界に生まれ現れることのないように、この世界から完全に解脱しようと考えられたと伝えられています。
また、この涅槃へと至るための深遠なる教えについて、例え説いたとしても、誰にも理解してもらえないのではないかと考えられて、教えを説くことを躊躇されたと言われています。
このように釈尊が教えを説かれることを躊躇なされていた時、梵天が現れられて、「そのすばらしい悟り・涅槃へと至るための道を衆生にも大いに説き、迷い・苦しみから衆生を救済して下さい」と、三度も勧められたと伝えられています。
この梵天からの勧請を受けて、釈尊は、悟り・涅槃へと至る道を衆生に説くことを決意され、いよいよ仏教が始まるのであります。
釈尊が教えを説かれることを躊躇なされた真意の一つとして考えられるのは、仏教は対機説法、方便を用いる教えであり、説く対象となる相手の悟りへと向けた機根に応じて(理解できる能力に合わせて)、説かれるものであって、一般的な教えとしてはある意味で成り立たないものもございます。それが故に、ある者に説いた教えが、別の者に対して適用できるかどうかは非常に難しく、かえって誤解や混乱を生じさせてしまい、益にならないかもしれないと考えられたのではないかと存じます。
梵天勧請は梵天勧請として、とにかく何よりも、問題は、教えを請われた側の僧侶が、相手の機根を見極めた上での対機説法・方便に巧みかどうかでございます。
僧侶も正直、玉石混交です。そこはある程度、仏教を学び進めていく中での見極めが必要になるのではないだろうかと存じます。
ご参考までに。
川口英俊 合掌
私達仏教徒にとって必要なものは、やはり仏教です。仏の教え、そして仏に成る教えです。
お経やお坊さんの書いた本を読んだり、お坊さんの法話を聞いたりして学び、それを実生活で実践することです。
感情をよくコントロールして、理性で物事を見て、考えて、行うことです。
他人に慈悲の心で接することです。
菩提寺を急いで探さなくてもかまいません。あなたが納得する教義の宗派、あるいはあなたが信頼できるお坊さんを見つけるところから始めましょう。
なお、あなたの実家が浄土真宗であるなら、阿弥陀仏に全てお任せすればいいと思いますよ。菩提寺がなくても、立派なお墓がなくても、慈悲深い阿弥陀仏はあなた達を決して見捨てることはありません。命が尽きる時には、ご先祖様の居られる極楽浄土に連れていってくれるのです。南無阿弥陀仏。
追記
あなたの親御さんがどのように弔われたいのか、よりも、生きている今どんな親孝行ができるのか?その実践が大切なのですよ。
質問者からのお礼
聖章様、
ご回答ありがとうございます。
にわか仏教徒ながら、仏教とは(大きくは宗教全体)理論ではなく実践だなあと常々感じております。
立派なお仏壇もお墓もあるので、余計に困っています。
両親はあまり信仰には興味がなく、高齢ですが、どんな弔われ方をされたいのか謎です。
私なら生前おつきあいのあった僧侶の方にお経を詠んでもらいたいと思います。
葬儀社の依頼を受けた僧侶の方でも、ある意味ご縁とは言えるかもしれません。
今は死に際してというより、仏教の本質に迫りたい気持ちでいっぱいです。
私のできる範囲内で修行します。
合掌
川口様、
ご回答ありがとうございます。
日々の勤行で、かなりなめらかにお経が詠めるようにはなったものの、宗派によってはお師匠様によって口述でお経の音階を習うとのことで、このご時世でさえ、インターネット上にはもちろん乗りません。
仏教の本質となると、門外不出というより、理解できない人も多いことと思います。
便利な世の中にはなりました。信仰なしで生きていくこともできます。
ロウソクの灯火を眺めていると、それでも信仰は絶えることがないだろうと感じます。
ちょっとしたきっかけで、仏教徒であるという自覚が生まれました。
困難は多いのですが、お釈迦様には感謝しております。
合掌
聖章様、
重ね重ねありがとうございます。そうですね、親孝行。あまり親子関係が良好ではないので考えることがありませんでした。できることをやっていこうと思います。それも仏教の大切な教えなのですね。
大慈様、
ご回答ありがとうございます。
よく、『批判ばかりしていて優しさのカケラもない人。』と言われます(泣)。
若かりし頃、欧米の哲学書や長編小説ばかり読み漁っていたので、ユダヤ、キリスト教的なものの考え方が身に染み付いているのかもしれません。
お寺に参拝するようになってからは、閑散とした境内に今までの自分をリセットしてもらっているかのようで、人生の後半は別の行き方をしてみようと考えます。
セレブがヨガや瞑想をしているという話はよく聞きますが、一過性のものではなく、柔軟な姿勢でもって、信仰の道を歩みたいと思います。