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愛犬をわたしが殺したと後悔してます

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愛犬を2日前に亡くしました。
5日前から食事をしなくなり、獣医に連れて行ったところ子宮蓄膿症と言われすぐに手術したほうがいいと言われました。
翌日、手術することに決めて入院をさせました。帰る前、最後に会わせてもらい、わたしにスリスリすり寄ってきてブンブン尻尾を振っていたので、結構元気だな。と思いながら病院をあとにしました。

翌日朝、病院から「◯◯ちゃん、結構元気なんです。1度退院して体調が落ち着いてから後日手術にしますか?いずれ必ず手術はしなくてはいけませんが」と連絡がありました。
わたしは主人と相談をして、また痛い思いするなら今日手術をしよう。体調が悪化したらかわいそうだ。と決めて獣医さんに今日手術をすると回答しました。

しかし、その手術中に愛犬は亡くなってしまいました。心臓がもたなかったみたいです。

愛犬はわたしに「病院に置いていかれて、そのまま殺された」と思っていそうで後悔ばかりしています。

わたしが手術をすると言わなければ、あと1日は一緒にいれたかもしれない。わたしがあの子の寿命を縮めた。あの子に「また迎えにくるから大丈夫だよ。」と声をかけたのが最後の言葉だったのです。
嘘つきと思っているのでしょうか。どうしてこんなことしたの?とわたしを責めているでしょうか。

わたしが殺したと思っています。立ち直れそうにありません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

申し訳なかったと気持ちを込めてご供養を

生物の生命は人間のチカラでもどうにもならないことがあるものです。
「わたくし」が通用しないことがあるのだと思ってみてください。
人間の願いや期待とは無縁の流れの中に私たちは存在しているのです。
それを一切皆苦と申します。
苦しいという事ではなく、自我の願い、願望とは無縁無関係であるという事です。
誰かを責めたりするのは誰も救われません。
まずは、その子の死を無駄にしないことです。
うちでも買っていた犬が亡くなったのですが、首輪を外した時に「ああ、この子はウチの犬ではなかったのだなぁ。天地自然の何ものにも、誰にも属さない宇宙に立った一匹の犬であったのだ」と感じました。
人間は、犬を❝ペット❞と呼ぶからこそ、苦しいのではないですか。
犬という天地自然、大宇宙に一匹しか存在しないその生物を「わたくし」「わたくし化」して、我が家のペットとするのです。
それが人間世界のごく当たり前の行為なのではありますが、それは本当は宗教心が芽生えているとは言えないのです。
本当に私たちがこの世界であらゆる生物と共存していくためには、お犬様一匹にも尊厳を見出して差し上げることが大切なのであると私は感じています。
そのワンちゃんの「尊厳」を改めて見出してあげてください。
ああ、わたしの、うちの、うちのペットではなかったのだという気づきを持っていただきたいのです。
そうする事で、あなたから本当に手放されて自由な存在として送り出してあげることが出来るでしょう。
犬は歴史の中で人間と互いに助け合って共存してきました。
ねんごろに供養してあげてください。
そして、これをきっかけに菩提心をもってください。
その生命を弔い、その子にしてあげたかった、注いであげたかった情愛を世の中の苦しんでいる存在に注いで差し上げよう、私のできる限りのことをこの世の中にお返ししようと願いを持つのです。
その子が懐いてくれた優しい心はあなたの中に宿っています。
その優しい気持ちを心の中から引き出すことで、その子は不慮の事故ではありましたけれども、今後もあなたと共にやさしさ性となってこの世の中で生き続けていくのです。
私があなたにこれを申し上げるのも、うちで育って死んでいったお犬様たちが語り掛けてくれていることなのです。
犬も人も死なんのですよ。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

愛情いっぱいで

そんなことないですよ。もしこうだったら、ああだったらと考えれば何処までも後悔しかないものです。
あなたの大切な家族の一員だった愛犬であれば、その事実をありのままに受け入れてくれてます。あなたの愛情をたくさんもらって生きてきた事実を知っています。
あなたが今できることは、後悔ではなく感謝でしょう。
今までありがとう。といって手を合わせること。あなたに育ててもらい、きっとワンちゃんも感謝してますよ(^ ^)

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。愛犬に感謝をもって供養をしてあげたいと思います。
胸の重みが軽くなり、目の前が明るくなった気がします。
気持ちの整理がつくまで時間がかかりそうですが、あの子のためにも自分を責めず笑顔でいれるよう努めます。

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