人に共感出来ない
人の気持ち(主にプラスの感情)に共感出来ずに悩んでいます。
他人が喜んでいる様子や嬉しがっている様子を見ても何とも思いませんし、何も感じません。
その為、他人に対して何かをする、してあげるという行為に対して非常に億劫さや面倒臭さを感じてしまいます。
他人に対して、親切な行いやボランティアをする人々は、総じて共感能力が高い人だと感じています。
相手が喜んでいる、嬉しがっている様子を自分のことのように感じることの出来る人でなければ、どれだけ他人の為に尽くそうとも結局は無駄なことのように感じると思われるからです。
上記のような考えを持つ自分自身がとても自己中心的で冷たい人間のように感じられて、日々不全感を感じています。
そこで質問なのですが、他人の喜びを自分のことのように感じる為には、日々を過ごす上でどのような心構えや習慣が必要なのでしょうか?回答の程よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたの笑顔も誰かがつくってる
あなたは、自分が誰かから何かをしてもらった時に、喜んだり嬉しかったりしませんか?
嬉しいことに出会ったら、思わず笑顔になりませんか?
他人の笑顔に興味はなくても、自分の笑顔は否定出来ないはずです。
実は他人もそうなのです。
誰しもが、笑顔でいる時間が一番楽で一番楽しいことを本当は知っているのです。
でも、他人のために動くことが面倒くさい。
言うなれば、損得感情とでも言いましょうか、億劫も面倒くさいも、その行動が自発的なものでないから起る感情です。
簡単に言えば、誰かに言われてとか、やらなければいけないとか、そういう立場からものを考えるから、億劫だったり面倒くさくなるのです。
ボランティアだったり、誰かのためにと言う行動は、常に自発的なものです。
たとえ誰かに「やれ」と言われて始めたとしても、「やる」と決めた自分がいるからやるのです。
「やりたくないけどやる」でさえ、「やる」を選択しているのです。
自分が「やる」と決めた行動の結果が、笑顔として返ってくる。
返ってきた笑顔が自分の行動に見合うものだった時に、また笑顔をみたいとか、喜んでいる姿を見たいと思う感情が、また次の「やる」に繋がって、自然発生的にサイクルを生んでいるのです。
もちろん、自分の行動に見合う結果がいつも出るとは限りません。
これだけ頑張ったのに…と思うこともあるでしょう。
これは誰しもが思うことです。
でも、何らかの行動のないところに笑顔は生まれません。
誰かが行動してくれないと、自分の笑顔さえ生まれないのです。
テレビを見て、ゲームをして、漫画を読んで、食べて楽しい。
でも、テレビもゲームも漫画も食事も、必ず誰かの行動がそれらをつくっています。
本当はみんなそれが心のどこかで解っているからこそ、自分が行動せずに動かないことが続くと、ともすれば、自己嫌悪や現実逃避の引き金にもなりかねないのです。
誰かのためにというのは、逆に言えば、自分のためにということです。
誰かがあって、初めて自分が笑顔になれるのですよ。
自分で身体を動かし、試行錯誤して何かを作る
私は年をとってきた師匠や母のために、お墓へ登る坂に階段を作っています。階段といっても大したものではなく、地面に木の杭を二本刺して、そこに丸太を引っ掛け、土をとめて段にするだけの簡単なものです。
できるだけお金をかけたくありませんでしたし、禅宗ではこういったことは作務(さむ)という立派な修行ですから、できるだけお寺にある物で作ることにしました。裏山に入ってノコギリで木を切り、それを引きずって運び、適当なサイズに切り分け、鉈で皮を剥ぎ、地面に刺す杭は尖らせます。そして長さが腰まであるハンマーで杭を打ち込み、スコップで地面掘って丸太をはめ込み、土をかぶせ、ジョウロで水をかけて固めます。
こう書くと大したことなさそうですが、やってみると分からないことだらけ、難しいことだらけです。たとえば汗水流して一生懸命にハンマーで打っても、1ミリづつくらいしか地面に入らない…
嫌気がさしてもう止めよう!と思った頃に「こうすると力が伝わるんじゃないか?」とひらめき、コツをつかんだのですがその直後、ハンマーのクビが折れちゃった…師匠が子供の頃からあったものですから木が朽ちていたんです…
で、肩を落としながら帰りつつ、ふと思ったのです。「こんな大変なこと何十年もやってる仕事の人がいるんだよなぁ…すげぇなぁ…ノコギリなんかどうやったら思い付くんだろ…製鉄だって自分にはできないよなぁ…やっぱり仕事の対価って、惜しまず感謝の気持ちとして払わないとダメだなぁ…」
結局、共感力というのはこうして自分で苦労することの積み重ねです。あと、職場や家庭で他人の成長に携わるという体験を真面目にすると変わりますよ。
気持ちの注ぎすぎ か そうでないか
ポレポレさん、こんにちは。
たとえば映画で涙を流す人とそうでない人は、共感力、心理的距離の違い、気持ちを注いでいるかいないか、自分にそういう体験、経験があるかないかなどで変わります。
「アナと雪の女王」で共感できず全然泣けなかった夫が「あの話で泣けないなんて人として共感能力に欠けているわッ!」と妻に捨てられてしまった実話があるそうです。(奧さん、夫にも共感してあげて)
「えっ!そこで泣くの、何故?」ということは感動映画に限らず、笑いのツボにも同じことが言えます。(私の回答はぶっちゃけ、四分の一は、質問者様の緊張を取り除くためにも、冗談や、お笑いをまじえていますが、真面目な人たちや趣旨を理解してくれない方に反感を買われてしまいます。
世間の痛ましい事件などでも、気持ちを注ぎすぎた状態でニュースをみると我が事のように、心が痛みます。
何でもかんでも、共感力が高ければよいかといえば、そうでもありません。
(そろそろ来ますよ)ぶっちゃけ、わたしは、こういうことを申し上げますと、〇〇ファンを敵に回しますが、学生時代、そのスポーツの名前は言えませんが、白黒の玉を蹴っ飛ばして半開きの巨大カゴにけり入れる某スポーツや、小さい白い玉を金属か木製の棒で遠くへ打ち飛ばすスポーツを真夏の暑い中、汗水たらしてお金払ってまで見物して勝った負けたで熱狂して泣いている人たちをみると高校くらいの時に「お前ら大丈夫か?」「何でコイツら人の事で泣いているんだ?」「相撲や卓球、剣道でそんなに泣くか?」「勝った負けたからってお前が勝ったわけでも負けたわけでもないだろうに何故に泣く?それほど他人事で一喜一憂、熱狂すべきことか?」と本当に意味不明で頭がおかしい人たちであると思っていました。
その考えは、今では大きく反省し、改めました。大変申し訳ございません。「きっと夏の頭が熱さでおかしくなっていたのであろう」と、その考えを大きく改めました。(↑全然改められていない)あ、ここ笑う所です。
さて結論。よって、あなたの能力は、上手に使えば、上手な距離感を保てる素晴らしいチカラでもあります。「百万回生きたねこ¿」とかいう話がおススメです。
自分以外に大切なものを持つとガラリと変わるということですね。
あ、サッカーも野球も大好きです。泣きはしませんが。この話、共感で来ましたか?(._.)
自分に置き換えてイメージを
誰でも傷つけられるのは嫌だから、他人を傷つけてはならない、というのがお釈迦様の考え方です。
自分が嫌なことは他人にしない。
つまり、他人を自分に置き換えてイメージするわけです。
喜びについても、他人を自分に置き換えてイメージするか、あるいは、他人と自分が一緒に「やったー!」と喜んでいる様子(サッカーのサポーターみたいに)をイメージしてみてはどうでしょうか。
ちなみに、日本テーラワーダ仏教協会のホームページに「慈悲の瞑想」というのが紹介されています。
やってみてはどうでしょうか。