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仏教と宗教

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仏教と宗教はどう違うのですか?

宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教とは、絶対的な世界観(宗教)の一つの見方

「宗教の自由」という言葉があるように、宗教とは極めて個人的な事柄です。したがって、私の答えも極めて個人的な見解とし受け止めていただければと思います。

宗教と言っても、様々な分類がなされますが、仏教やキリスト教などの宗教は、私たちの人生に意味付けをするものだと言えます。現代社会は、一見、科学万能主義的に見えますが、科学は私たちの生き方(人生に対する価値観)を問うことは出来ません。それは科学は相対化された世界を分析することは出来ても、相対化されえない、つまり、他者・他の物事との比較によらない、自分自身に問いかけられた問い(「自分はどう生きていくのか。」)には答えることは出来ないからです。私たちの生き方(人生に対する価値観)を問うとは、私たちの人生に意味を見出すことです。それは決して相対化された世界観ではなく、絶対的な、どのような場所、時間(時代)においても適応できる普遍的なものでなければならないのです。ある人は、科学も普遍的な真理を扱っていると言うかもしれません。しかし、たとえば、水はH2Oだと言っても、H(水素)とO(酸素)がないところでは水は出来ません。太陽は東から昇り西に沈む、と言っても、太陽は永遠に存在する星ではありません。いずれは消滅してしまうものです。また東、西もまさに相対的な認識です。このような相対的な世界に自分自身の生き方を見出すことは、不安定な世界に身を置くことに等しいのです。ですから、人は絶対的な世界を求め、宗教を生み出したのです。

そのような宗教の一つが、仏教です。仏教は「私たちから人生の苦しみを取り除くために、この世界のものはどう在るのかを考察し、そこに我々の生き方(人生に対する価値観)が明らかにされてくる世界」として、この世界を捉えています。つまり、仏教において、この世界が縁起・無自性・空の世界であると説かれる時、「私たちから人生の苦しみを取り除くためには、私たちは物事に対して、無執着でなければいけない。」という、私たちの生き方(人生に対する価値観)に問いかけてくる世界が開けてくるのです。

以上が私の回答です。ご参考になさってください。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...

宗教とは、宗とする教え

正誤はさておき、一般の方が思い描く宗教とは、絶対的な教祖がいて、その教えに盲目的に追随するものかもしれません。その考えと仏教は確かに異なります。ですから、仏教をあえてカテゴライズすれば哲学だと言う学者もおります。

英語のRELIGION(宗教)は、「神の国を追放された人間が、再び(RE)その地と繋がるためのもの」が原意だと聞きますので、その意味でも仏教はRELIGIONとは異なります。

しかし、日本語の宗教とは、宗となる、宗とすべき教えです。その人の日々の生活の規範とすべきものですから、仏教はやはり宗教の一つです。よく、拝金主義の人を「お金教」とか、ワンマンな指導者を「(その人の名前)教」などと呼びますが、そういった名前の付け方が、日本的な宗教に対する考えに、近いと思います。

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住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、...

教えそのものが宗教

どんな意味でお知りになりたいかは解りませんが、教え(教義)という意味と、それを信仰する集団(教団)という二種類の捉え方があります。

一般的には、その元となる教えとそれを信仰する集団(教団)の両方を含めて宗教と呼びます。

ですから、仏教も、キリスト教も、イスラム教も、神道も、あのオー○真理教さえも、大きな意味で言えばすべて宗教です。

しかし、仏教もキリスト教他の教えも、各々が同じ信仰を持って集まったものが形になったというだけのことであって、外からそれを見た時に「この教義を信仰して、ここに集まっているから○○教(○○宗)」と言って、分類するために「宗教」という言葉が使われていると言うに過ぎません。

教団(団体)という形で考えるなら
形をなせば宗教
形をなさなければ信仰
ということでしょうか?

日本では、一定の期間、不特定多数の信者を擁して宗教的活動をしていると認定された団体を「宗教法人」として、それを総称して宗教に位置づけています。

ですから、宗教団体としては、古くからある伝統的な宗教と、昨今の「人集め,お金集め」を目的とするかのような宗教や、カルト的な宗教とは、確実に一線を画す部分があることは確かですね。

ただし、厳密な意味で宗教とは?いうならば、教団よりも教えの方にウエイトが移行します。

その信仰に集う人たちが、どのような教義を元に信仰しているか、それを分類する言葉を宗教と呼ぶのでしょう。

私たちは、お釈迦様の教えを信仰して、仏教という宗教に属しているわけですね。

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日蓮宗。倉敷市受法寺住職・岡山市妙立寺兼務住職 1965年生。坊主歴35...

仏教は宗教の一つ。

1962tronさん、ご質問ありがとうございます。

宗教にはいろいろありますが、(たとえばキリスト教や神道など)
その一つに仏教がある、というのが一般的な答えになるでしょうね。

仏教と宗教の違いとのご質問ですが、そういう観点からだと、
仏教は宗教の一つですから、他の宗教との違いということでしょうか。

思いつくままに ですが。
キリスト教などの一神教とは違って、お釈迦様はたくさんの仏が存在し、
その仏はお釈迦様がお生まれになるずっと以前からおいでであった。

その仏の教えに気づき、体得され、その教えを広く広められたのがお釈迦様であり、
一種の宇宙観であると言ってもよいのでしょう。

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真宗山元派上西山正善寺住職

カテゴリー

宗教と仏教はカテゴリーです。
大雑把に言って信仰があり何かに祈る行為が宗教でその中で釈尊の教えを信仰しているのが仏教と考えて差し支えないと思います。

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私は日蓮宗 今治 寺町法華寺の住職をしております讃岐英昌(サヌキ エイショ...

「宗教について」問答一覧

宗教や宗派ってそんなに重要ですか?

宗派のラベリングに重要性が見いだせず、むしろ弊害を感じることが多いです。 (800文字と長めです。) 以前とある牧師さんに教わりました。「キリスト教は浄土宗とソックリだ。日本向けのローカライズのために、あえて仏教に化けて広めた可能性を疑う研究者すらいる(笑)」 真偽はさておき、個人的には同感です。核心部たる念仏などは酷似しており、言葉が違うだけで内容はほぼ一致かと(素人目には)感じています。となると、キリスト教と浄土宗の本質的な違いは何でしょうか?人智を超えた神仏を※※教だけが独占できると見なす構造にも疑問があります。 ここからが本題です。その違い(ラベリング)は、諸々の軋轢を覚悟してまで保つべき、重要な違いなのでしょうか? 些細な見解の差で派閥や宗派が分かれていき、しまいには宗教戦争が起こるのだとしたら、単なるセクショナリズムと何か違うのでしょうか?5%の違いのせいで協力できず、残り95%の共通点を捨てているように見えます。ましてや同じ宗派や寺院の所属でも、個人ごとに意見はバラバラだというのに。宗派の上納金制度?などを聞いても、宗派はいわゆるビジネス上の"のれん"に過ぎないのでは?との現実的な疑問も浮かびます。 問いの対象は浄土宗だけではなく、宗教と道徳の境界線についてです。話がそれますが、中東問題などを理解する上でも避けて通れないテーマです。奇譚のないご意見を頂けると嬉しいです。 問を整理します。 「学べば学ぶ程に、宗教や宗派のラベリングに重要性が見いだせません。むしろなぜ拘るのかわかりません。私に欠けている視点を、どうかお聞かせください」 以下は補足です。 私はキング牧師やガンジーを尊敬しています。彼らは別々の信仰を持ちつつも、※※教徒のためではなく、社会全体の差別撤廃のために活動しました。それでいて、全ては信仰に基づくと明言しています。このスタイルに敬意を持つ反面、宗教宗派のラベリングに違和感を持つということは、何かを見落としているのでしょうか? 宗教とか宗派に拘りがなく、人に言われるまで気づきもしないのはダメなのでしょうか?

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お先真っ暗

色々な人に助けられて何とか生きています。婦人科系の病気は中々手強いです。 私は一応キリスト教の信者なんです。もう20年以上も教会には行っていません。キリスト教では自殺は絶対に認めません。私が薬を買っただの飲むだなとここで言っていますが、どうしても理解出来ないんです。理由や原因が何であれ心身共に弱っていて命を絶ってしまった人の霊魂を受け入れないなんておかしいって神父様に言った事があります。頑張った、ギリギリまで頑張ったけど駄目だった人を、神から与えられた命を勝手に消したのは許されないなんて慈悲の神様がする事なんですか?って。結局水と油で教会には行かなくなりました。聖書をこの時くまなく読みましたが、自ら命を絶つ事は許されないと弟子が言っていて、イエズス・キリストは言っていないなと。こんな私がおかしいですが、自ら命をを絶った人の霊感が天国で安らかに過ごせます様にと祈っています。それは間違っていると神父さまが言ったので、もう教会には行かない事にしました。お坊様はどう思われますか?やれ薬をかったとか飲むとか言った私が聞くのは変かもしれませんが。 政府は決して認めようとはしませんが、CORONAの第1波が治らない内に明らかに第2波が日本を襲っていると思っています。益々主人は日本には来れないだろうと、もう一生会えないかもしれないとさえ感じています。婦人科系の病気はさっぱりです。治りません。通院に疲れています。でも、何とか生きています。息も絶え絶えです。

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宗教とは

祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。 仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。 さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。 宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。 かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。 化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。 また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。

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宗教、神道、スピリチュアル

今の世の中は情報で溢れています。 スマホって簡単にいろいろ調べることができて、情報で溢れかえっています。 心がツライときや精神的にしんどいときに、 精神的に弱く強くなりたいなぁ 傷つきやすい性格を変えたいなぁと思い、 検索魔になって検索すると、 あれやこれやいろいろ出てきて、 何が良くて何が悪いわけではないと理解していますが、情報が多すぎて、よくわからなくなってきます。 何がホントなのか?何を信じていいのか? きっと私意外にも藁をもすがる思いで、いろいろ検索する人もいると思います。 (確固たる宗教など崇拝してる方は、このような迷いはないかと思いますが…) 信じたいことだけ信じてればいいのでしょうか? 仏教的な目線は下記のことはどのように思われますか? 全ての出来事は引き寄せ? 出会う人や出来事は偶然?必然? 自分に起こる出来事は必ず必要? 乗り越えられない試練はない? 健康に問題があるときは暗示? 仏様にお願い?神様にお願い? 宇宙に任せる? 自分の胸にすーっと収まった言葉こそがご縁があり、その時に、ん?なんか腑に落ちないなって思う言葉は受け入れなければいいのでしょうか? そのような言葉でも後から受け入れるようになるかもしれませんが… 私自身、家に仏壇もあり仏教ですが、正直、意識するときはお墓まいりや法事の時だけです。ですが、今度はお墓があるお寺に仏教講座があるので、参加しようと思っています。 自分勝手な考え、散文、お許し下さい。 お手数お掛けします。よろしくお願い申し上げます。

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信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

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