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仏教と宗教

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仏教と宗教はどう違うのですか?

宜しくお願い致します。

2015年7月18日 0:02

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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教とは、絶対的な世界観(宗教)の一つの見方

「宗教の自由」という言葉があるように、宗教とは極めて個人的な事柄です。したがって、私の答えも極めて個人的な見解とし受け止めていただければと思います。

宗教と言っても、様々な分類がなされますが、仏教やキリスト教などの宗教は、私たちの人生に意味付けをするものだと言えます。現代社会は、一見、科学万能主義的に見えますが、科学は私たちの生き方(人生に対する価値観)を問うことは出来ません。それは科学は相対化された世界を分析することは出来ても、相対化されえない、つまり、他者・他の物事との比較によらない、自分自身に問いかけられた問い(「自分はどう生きていくのか。」)には答えることは出来ないからです。私たちの生き方(人生に対する価値観)を問うとは、私たちの人生に意味を見出すことです。それは決して相対化された世界観ではなく、絶対的な、どのような場所、時間(時代)においても適応できる普遍的なものでなければならないのです。ある人は、科学も普遍的な真理を扱っていると言うかもしれません。しかし、たとえば、水はH2Oだと言っても、H(水素)とO(酸素)がないところでは水は出来ません。太陽は東から昇り西に沈む、と言っても、太陽は永遠に存在する星ではありません。いずれは消滅してしまうものです。また東、西もまさに相対的な認識です。このような相対的な世界に自分自身の生き方を見出すことは、不安定な世界に身を置くことに等しいのです。ですから、人は絶対的な世界を求め、宗教を生み出したのです。

そのような宗教の一つが、仏教です。仏教は「私たちから人生の苦しみを取り除くために、この世界のものはどう在るのかを考察し、そこに我々の生き方(人生に対する価値観)が明らかにされてくる世界」として、この世界を捉えています。つまり、仏教において、この世界が縁起・無自性・空の世界であると説かれる時、「私たちから人生の苦しみを取り除くためには、私たちは物事に対して、無執着でなければいけない。」という、私たちの生き方(人生に対する価値観)に問いかけてくる世界が開けてくるのです。

以上が私の回答です。ご参考になさってください。

2015年7月18日 10:25
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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...

宗教とは、宗とする教え

正誤はさておき、一般の方が思い描く宗教とは、絶対的な教祖がいて、その教えに盲目的に追随するものかもしれません。その考えと仏教は確かに異なります。ですから、仏教をあえてカテゴライズすれば哲学だと言う学者もおります。

英語のRELIGION(宗教)は、「神の国を追放された人間が、再び(RE)その地と繋がるためのもの」が原意だと聞きますので、その意味でも仏教はRELIGIONとは異なります。

しかし、日本語の宗教とは、宗となる、宗とすべき教えです。その人の日々の生活の規範とすべきものですから、仏教はやはり宗教の一つです。よく、拝金主義の人を「お金教」とか、ワンマンな指導者を「(その人の名前)教」などと呼びますが、そういった名前の付け方が、日本的な宗教に対する考えに、近いと思います。

2015年7月18日 8:17
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おきもち

住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、...

教えそのものが宗教

どんな意味でお知りになりたいかは解りませんが、教え(教義)という意味と、それを信仰する集団(教団)という二種類の捉え方があります。

一般的には、その元となる教えとそれを信仰する集団(教団)の両方を含めて宗教と呼びます。

ですから、仏教も、キリスト教も、イスラム教も、神道も、あのオー○真理教さえも、大きな意味で言えばすべて宗教です。

しかし、仏教もキリスト教他の教えも、各々が同じ信仰を持って集まったものが形になったというだけのことであって、外からそれを見た時に「この教義を信仰して、ここに集まっているから○○教(○○宗)」と言って、分類するために「宗教」という言葉が使われていると言うに過ぎません。

教団(団体)という形で考えるなら
形をなせば宗教
形をなさなければ信仰
ということでしょうか?

日本では、一定の期間、不特定多数の信者を擁して宗教的活動をしていると認定された団体を「宗教法人」として、それを総称して宗教に位置づけています。

ですから、宗教団体としては、古くからある伝統的な宗教と、昨今の「人集め,お金集め」を目的とするかのような宗教や、カルト的な宗教とは、確実に一線を画す部分があることは確かですね。

ただし、厳密な意味で宗教とは?いうならば、教団よりも教えの方にウエイトが移行します。

その信仰に集う人たちが、どのような教義を元に信仰しているか、それを分類する言葉を宗教と呼ぶのでしょう。

私たちは、お釈迦様の教えを信仰して、仏教という宗教に属しているわけですね。

2015年7月18日 17:18
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おきもち

日蓮宗。倉敷市受法寺住職・岡山市妙立寺兼務住職 1965年生。坊主歴35...

仏教は宗教の一つ。

1962tronさん、ご質問ありがとうございます。

宗教にはいろいろありますが、(たとえばキリスト教や神道など)
その一つに仏教がある、というのが一般的な答えになるでしょうね。

仏教と宗教の違いとのご質問ですが、そういう観点からだと、
仏教は宗教の一つですから、他の宗教との違いということでしょうか。

思いつくままに ですが。
キリスト教などの一神教とは違って、お釈迦様はたくさんの仏が存在し、
その仏はお釈迦様がお生まれになるずっと以前からおいでであった。

その仏の教えに気づき、体得され、その教えを広く広められたのがお釈迦様であり、
一種の宇宙観であると言ってもよいのでしょう。

2015年7月18日 4:21
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おきもち

真宗山元派上西山正善寺住職

カテゴリー

宗教と仏教はカテゴリーです。
大雑把に言って信仰があり何かに祈る行為が宗教でその中で釈尊の教えを信仰しているのが仏教と考えて差し支えないと思います。

2015年7月18日 7:12
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私は日蓮宗 今治 寺町法華寺の住職をしております讃岐英昌(サヌキ エイショ...

「宗教について」問答一覧

宗教、神道、スピリチュアル

今の世の中は情報で溢れています。 スマホって簡単にいろいろ調べることができて、情報で溢れかえっています。 心がツライときや精神的にしんどいときに、 精神的に弱く強くなりたいなぁ 傷つきやすい性格を変えたいなぁと思い、 検索魔になって検索すると、 あれやこれやいろいろ出てきて、 何が良くて何が悪いわけではないと理解していますが、情報が多すぎて、よくわからなくなってきます。 何がホントなのか?何を信じていいのか? きっと私意外にも藁をもすがる思いで、いろいろ検索する人もいると思います。 (確固たる宗教など崇拝してる方は、このような迷いはないかと思いますが…) 信じたいことだけ信じてればいいのでしょうか? 仏教的な目線は下記のことはどのように思われますか? 全ての出来事は引き寄せ? 出会う人や出来事は偶然?必然? 自分に起こる出来事は必ず必要? 乗り越えられない試練はない? 健康に問題があるときは暗示? 仏様にお願い?神様にお願い? 宇宙に任せる? 自分の胸にすーっと収まった言葉こそがご縁があり、その時に、ん?なんか腑に落ちないなって思う言葉は受け入れなければいいのでしょうか? そのような言葉でも後から受け入れるようになるかもしれませんが… 私自身、家に仏壇もあり仏教ですが、正直、意識するときはお墓まいりや法事の時だけです。ですが、今度はお墓があるお寺に仏教講座があるので、参加しようと思っています。 自分勝手な考え、散文、お許し下さい。 お手数お掛けします。よろしくお願い申し上げます。

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信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

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神を信じているはずなのに~相談します。

私は神の実在を信じています。でも、各宗教の説く信仰の世界になじめず、ひとりでさまよっています。 私の煩悩は「自殺したい」とか「神よ私を速やかに殺してください」と願うことです。 自殺すると仏教で言う「無間地獄」に堕ちると信じるので、具体的にはあの世で自殺霊・地縛霊になり、救われることはないと信じるため、怖くて実行できません。 そんな人生否定の感情や死後の恐怖から生きるとしたら、なんと消極的で暗い、マイナスの人生観・生活観でしょうか? 私は人生の初期に親から新興宗教の経典を読まされ、神棚の前に正座して「人生は苦悩なり」という経文を唱えさせられていたことが、そもそもの間違いの始まりだったのではないか?と思います。 小学生のころから「人生は苦悩なり」と権威をもって教え込まれるのではなく、夢や希望や「わくわくすること」を追いかけてがんばり、その夢をつかむよう教えられるべきだったのでは?と思います。 小中学校時代、その新興宗教の夏季合宿に必ず参加させられていました。 中学に進学したとき無意識に友達の前で「あ~死にたい!」と口にして嫌われました。そのころそんなことを言う子は一人もいませんでした。 高校時代は「自分は不幸だ」と友達に告げて「じゃあ、なぜ自殺しないのか?」と問われました。 大学時代、変な宗教に強引に勧誘され「早く過ぎ去れ、青春よ~!」という歌を歌わされました。 大学卒業後は自殺未遂をして精神科に入院することになり、絶望のどん底でした。 3年後、父の死をきっかけに退院して新聞配達や肖像画制作をしてがんばり、登山までするようになったのですが、15年ほどで体力が衰え、失職してひきこもりになり、医師の診断通り「統合失調症」ということを受け入れざるを得なくなりました。幻覚も妄想もない統合失調症患者もいるということですが、私もそのひとりなのだと思います。 症状は「疲れやすさ」「意欲の低下」「睡眠障害」の3つです。 神への信仰、医療に頼っていますが、仏教文化も私には必要で、多くの影響を色濃く受けています。「般若心経」「観音経」「白隠禅師和讃」を仏前であげることもあります。CD集『ひろさちやの感動するお経』全8巻も繰り返し聴いています。 障害年金で暮らし、身近に相談相手もいない私は母亡き後果たして生きて行けるのか心配と不安で夜も眠れないほど悩んでいます。

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回答数回答 1

キリスト教か仏教か。

いつも、相談にのっていただきありがとうございます。 ストレートで申し訳ないのですが、キリスト教を信仰するか、仏教を信仰するか、迷っています。 キリスト教の教会は10年ほど前ですが、通っていました。信仰告白もして、あとは洗礼を受けるだけ…という所までいったのですが、別れた主人が浄土真宗のお寺の孫でキリスト教なんてとんでもない!と激怒され、そこから疎遠になってしまいました。 仏教はお経を今、私なりの言葉でわかりやすく訳していて、お釈迦様や阿弥陀如来の智慧に向き合う度に泣くほど感動することもあって、とても心を惹かれています。 幸い、わからないことがあったら聞いてくださいねと言っていただける僧侶の方とも出会うことが出来て、何度か質問もしました。 その僧侶の方の人となりだと思うのですが、終始、仏様を信じられたらいいですね。と言ってくれます。 私は仏様を信じたいと思っていますし、お経から導かれたこのご縁を大事にしたいとも考えています。 ただ、どうしたらいいのかわからないのです。キリスト教の時は日曜日の礼拝から始まり、聖書の勉強会を定期的にすることで 信仰を深めて行くことが出来たのですが、仏教は敷居が高いと言うか、私の住んでいる地域では勉強会もないですし、法話会もこのご時世なのでやっていない所も多く、やっていても都合が合わなかったりでなかなか信仰が深められません。 そんな時にクリスチャンの友人からまた、教会に行かない?と誘われました。 私の気持ちは仏教に傾いているので、教会に行く気持ちはないのですが、正直揺らいでいるのも事実です。 どうしたら、今ご縁がある僧侶の方に仏教を信じたい!仏教の勉強がしたい!という私の気持ちが伝わるのでしょうか? 仏教の勉強が出来るサイトや学校みたいな所も見つけたのですが、お金がそこそこかかるようでカツカツで暮らしている今の現状では厳しく…。 内容が前後して申し訳ないのですが、ご縁があった僧侶の方には信じたいということも、もっと勉強したいということも伝えています。それでも、返ってくる言葉は「信じられたらいいですね〜」という感じで、最近は私と関わってしまったことを面倒臭く感じているのでは?と思うことしきりです。 長文駄文失礼しました。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 30
回答数回答 3

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