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嫌われる勇気、どうしたら持てますか

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嫌われるのがこわいです。

嫌いな人に嫌われるのも怖いです。

嫌われたんじゃないかと不安になります。

その相手が好きな人でも嫌いな人でも。

苦しいです。

嫌いな人にも嫌われたくないなんて、そんな自分がわかりません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

嫌われない勇気=別に人から好かれなくてもOKな自由さ

こんにちは。自称・hasunoha一の嫌われ松子デラックス、たんたん丹下です。
嫌われる勇気を持つためには、嫌われる事で何がか実際に失われるのかどうかを明確にすると良いでしょう。何も減りはしません。減ったような【感覚】が生ずるだけで、血も出ていません、あざもありません。まぁ、嫌われる、ということがあるばかり。
私めは、電話お悩み相談や、ここでの相談ではヅケヅケものを申し上げます。
それは、その人の今後の人生において悩みの一番の原因になる「エゴ・我見・ぢぶん」を引き出すためでもあります。
ご本人様の「ぢぶん」=我、エゴ、自己愛を丹下に🍢つんつんされても、そこにご自覚を頂き、向き合っていただく為です。
なぜなら、この世の悪行や苦しみの原因は皆、人間のエゴであることは、すでに禅仏教では証明済みです。
人はみな、砂上の楼閣をまもらんと、突けば壊れるようなマイ・ファンタジー・ワールドのお城を大切にするのものです。ですが、お砂でお城を作っても壊れてしまうものです。
相手にこびへつらって、慰み・気休め言って、問題の本質から目を背けさせてしまってはお釈迦様や道元禅師の教えに反します。
先日もお電話が沢山かかってきますが、大体の方が自己チュー、自分中心です。
我の強い方も沢山います。
「自分のことしかない」方々ばかりです。
質問をされてくる割には「言ってもらいたいこと」もあらかじめ決まっている方も多いです。それは「俺・私に同調しろよ。オレは悪くない、正しいのはワタシで、アイツらは間違っている」という考えを助長させるだけ。その考えが本当に正しければ、その人は苦しみすら生じません。
占い師や◌◌師は、それを¥生業¥とする故に、ホスト・ホステスさんのように相手をヨイショして喜ばせて、本当はその人が進むべきではない道ですら選ばせる人もいます。
ここのお坊さん達は、みな嫌われる勇気の体現者たちとも言えましょう。
こうしてネットに残る形で言及する行為自体が誰かにとっては、嫌われる行為に直結していますからね。
「あなたは、あなた自身が本当に美味しいと思えるラーメン(仮名)を作ればイイ」のです。
それに「おいしい」と言ってくれる人があなたの真の理解者です。
私は、美味しいけどギトギトで不健康になるものを提供していません。
嫌われてでも人の生涯の苦しみの原因「我」を奪い続けるでしょう。ご参考までに。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ほんとうの価値

嫌われたくないというのは、否定されたくない、ともいえると思います。

他人が自分をどう評価するかだけに価値があると思うと、否定されたら、「自分に価値なし」の烙印が押されるようなものです。辛すぎます。

ですが、それはただ単に、「他人がどう思ったか」というだけで、私の価値には傷はつきません。本当は。

価値は私の中にすでにあります。価値は、他人に付けられるものでも、自分でつけるものでもなく、「最初からあるもの」です。

他人の評価は仮のもの。自分の評価も仮のもの。評価の後に価値が発生するのでなく、もともとあるものに気付けたら素晴らしいですよね(^^)

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おきもち

若輩者ですが、宜しくお願い致します。

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