満足することと欲、向上心、自衛について
こんばんは。またよろしくお願いいたします。
私は仕事、プライベート問わずに満足感が続くことがあまりありません。
例えば仕事がうまくいった、友人と楽しい時を過ごしたなどその場ではとても満足感があります。
しかし家に帰り冷静になると「まだまだ、あの仕事ができていない」「あの店はよくなかったな」など悪かった面を思いつきます。
ここまではよくあるかと思うのですが、、、私が自分自身おかしいと思うのは、例えば悪い面がなかったときでさえも悪い面をあえて見つけ出そうとする癖があるのです。
想像でものを言い「実は裏でこうだったに違いない」など悪く考えます。
楽しかったな、良かったなで1日を終わればよいのに。
あえて悪い面を見つけるのは、もっともっとと満足感をほしがる欲深さなのでしょうか。
またはもっと上を目指す向上心のはじまり、または満足感を得てその後の不幸を怖がる自衛の気持ち、浮かれないぞといった警戒の気持ち、いったいなんなのでしょうか。
いずれにせよ、あまり自分にとってプラスにはならないような考え方の癖かと思っています。
(向上心ゆえの癖でしたら、別の方法で向上心を持ち続けたいです。せっかくの満足感をあえて壊す自分がよく分からないです)
お坊さまがたからぜひアドバイス、ご意見いただけましたら幸いです。
この自分にとってマイナスでしかない癖の原因をさぐり、なくしたいとおもいます。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
審査員・評論者目線をやめプレイヤー目線で
スポーツや音楽のプレイヤーは、いつも本番では評価・点数無しに純粋にそれを楽しむ、没頭する、親しむだけでいいものです。
そこを生き切ったらそこでプレイ完了です。
ところが、審査委員、評論家は目線が違います。
判断・評価・その出来事の善し悪しを論ずる事を中心としています。
あなたの中で日頃メインで動いてしまっているのがこの審査委員、評論者マインドはないでしょうか。
たとえば私の横には扇風機が動いています。
プレイヤー目線であれば「ああ、涼しい」と今の事実を実感するだけです。これがブッダマインド、プレイヤー目線です。
ところが評価目線になると「ああ、右を向いている。ああ、左を向いた。今度は、また右を向く…、ひょっとして今度は上を向くかもしれないぞ? いや、タケコプターーみたく飛んで行ったらどうする。ドローンに銃を取り付けるように、扇風機が凶器になったらどうしよう…などという心配するようにもなってしまいます。
それが、評論者マインド、審査委員マインドなのです。
【評価することよりも感じたことを重要視】してください。
そもそも、そこの事実はそこで尽きていますから、いまから思い返しても帰りませんし、先の事は(私は今から胃カメラを飲みに行くのですが)まだ、この心身に行われていません。だから、今の事をちゃんと親しく生きればよいのです。
今向っている事を、評価委員、評論者スタッフを登場させずに過ごしてみてください。
近年は日本中の人が総評論者になっています。
すぐれた評論家はネガティブな所を観るだけでなく、解決方法を探すことも仕事の一部です。
万が一、評論者頭脳になったら批判やネガティブな指摘ではなく、今後の対策や解決方法にエネルギーを注いでみてください。(^<^)
今しか味わえない
あなたの癖の原因を探って治したいんですね。
向上心? 警戒心?
それとも満足感が足りない?
向上心なら大いに結構。
でも、文句を言っていたら向上にはならないですね。
警戒心なら、先のことはなってみなけりゃ判らないですから、警戒するだけ時間のロスです。
満足感が足りないなら、自分だけで満足しないで、ご主人や友達などと満足を分け合えば、少しは長続きするかも知れません。
少欲知足、これだけしか無いじゃなくてこんなにあるんだと思うことも必要かも知れませんよ。
でも、あなたがそれだけ自分で分析しても出てこないとしたら、原因は今じゃ無くて昔何かあったんでしょうか・・・
家族関係?友達関係?
何か認めてもらえなくて苦しかったことでもあるんでしょうか?
しかし、そんなことがあったとしても昔のこと。
今のあなたの目の前にあるわけではありません。
たとえ過去のことが影響していても、過去に意識を向けることは,今のあなたの足を引っ張ること。
それこそ、あなたの嫌いなマイナス面が顔を出してしまいます。
時間が経てば、人の心も成長します。
過去のことは過去のこと、その時のあなたも、その時の周りの人も、もうどこにも存在しません。
先のことは先のこと、こうはならないと思っていても、こうなるだろうと思っていても、現実はなってみないと判らない。
こうしてやろうは良いけれど、それはもうちょっと後で考えれば良いこと。
目の前のことを味わう時には、しっかりそれを味わう。
先のことを考えすぎない。
味わう時には味わう事だけに集中する、人は味わった分だけ向上出来る。
半分しか味わえないと、半分しか向上出来ない。
今しか味わえないんだから、今それをしっかり味わう。
人には表しか見えないのだから、あれこれ裏を考えても仕方が無い。
裏があっても表からは見えない。
逆に言えば、必要ないから裏にある、表に出せないから裏にある。
ならば裏は無いと同じこと。
わざわざ裏返してみる必要などどこにも無い。
原因を突き詰めて治すことも大事かも知れませんが、現実的に考えて対処法を見つけることもとても大事だと思いますよ。
裏返しそうになったら「やめなさい」「もうちょっと味わおうよ」って自分に声をかけて上げて下さいね。
見たまんま、そのまんま
僧侶の世界では、「他人の修行に干渉しない」ということが大切なポイントです。(なかなかできていないですが)
自分の与えられた仕事を全うする事が大切な事だと考えます。人の失敗や、悪い癖を注意したり罰を与える事はのぞましくありません。
向上心という事では片付けられない事です。
成長を願い努力するのは良いですが、それは、今自分がいるところでの話です。「想像する癖がある、悪いところを探してしまう」そこに気がついていられるなら、「思いを追求しない」という事を実践されてはどうでしょう。
お仕事で、こんな人がいた←見たまんま、そのまんまでストップ!
それ以上は付け足さない。心に目を向けず、目に見えたものそのままを受け入れます。二次的な思いはつけたしません。
心の動きに気づかれているのなら、できると思います。
怒り、怠け、プライド、自分の姿を他人に投影?
心理学の専門家ではないので断定はしませんが、人は、自分の内面を他人に投影して見てしまうそうです。
他人に対して「実は裏でこうだったに違いない」と思う場合、もしかしたら、あなた自身が他人にそういうことをしたくなる(裏で手をぬいたり)本性があるのかもしれませんね。
損をしたくない、いわゆるケチというのは、怒りの煩悩の一種らしいです。
怒りの煩悩の仕業かも。
家でも仕事が気になるのは、早く仕事を片付けてすっきりのんびりしたいという怠けの煩悩かも。実際は、生きてるかぎり、やらなきゃならないことは次次にでてくるのに。
他人の悪いことを見たがるのは、プライドの煩悩(自分の価値を評価したい)があり、その評価の方法として他人との比較をしているからかも。
過去の自分と比較して成長したな、とかいう評価の仕方もあるのに、他人と比較したいのかも。
煩悩は悩み苦しみの原因ですから、自分の煩悩に気付くのは良いことです。
質問者からのお礼
お坊さま
皆さま、貴重なご見解とお時間ありがとうございます。
「今、ここにいる自分」「事態をそのまま受け止める」という認識が私には抜けていることに気づくことができました。
この悪癖とは長い付き合いなのですぐになくすのは難しいかもしれません、でも悪癖の正体が見え、苦しむ前に対処できそうです。
また苦しい想像がはじまったら皆様のご回答を読み返したいと思います。