楽になりたい
人間関係に悩んで、疲れました。
私は自分がされて嫌なことは人にしたくないので
していないつもりです。
でも大事な人を傷つけてしまいます。
意識的にも無意識でも。
中学高校とずっといじめられっこでした。
仲のいい友達はいるけれど
必ず誰かに無視とか悪口とかがありました。
いまのままじゃだめだって何度もやり直して
がんばってもいきつく先は、いつも孤独です。
私はなにか悪いことをしたのでしょうか
ただ毎日を幸せに過ごしたいだけなのに。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お釈迦さまでさえ人を傷付ける
お釈迦さまは釈迦族の王子で、いずれ王位を継ぐ予定でした。けれども王位継承権を捨てて出家します。悟りを開いた後、故郷に帰ります。そして自分の従兄弟や息子たちをみんな素晴らしい仏道修行の世界に招き、出家させました。ところが、これを知った父王は深く傷付き、泣きながらお釈迦さまを責めたのです。
「仏陀よ、あなたが出家した時、私は言葉で言い尽くせないほど悲しみ、苦しみました。でも、その時はまだ甥のアーナンダがいると思って我慢しました。そのアーナンダが出家した時も同じように悲しみ、苦しみました。でも、まだ孫のラーフラがいると思って我慢しました。今そのラーフラまでが出家したと聞いて、私の胸は張り裂けんばかりです。あなたが悟りを開いて立派な人になったといっても、子を思う親の愛はまた別物です。」
これを聞いてお釈迦さまは深く深く反省しました…
お釈迦さまでさえ、良かれと思ってやったことで人を、それも最も近しい人を傷付けてしまったことがあります。それに考え方の違う人たちから街ぐるみで無視されたり、悪口を言われたり、ケンカをふっかけられたことがしょっちゅうでした。お経を読めばそういうシーンが何度も出てきますよ。時には弟子にまで裏切られて殺されかけたことさえあります。
きこさんが悪いかどうかではなく、人とはそういうものであり、どんなに人気者に見える人でも、みんなどこかで傷付きながら生きています。
お釈迦さまはその事実をしっかりと受け止めました。そして…「どんなに思い通りにならないことばかりでも、自分は誠実に生きよう。誠実に生きようと頑張り続けさえすれば、自分の人生に胸を張れるだろう。それは逃げたり、人の嫌がることをして後悔ばかりの人生になるより、ずっと楽で賢い生き方じゃないか」という信念を持って生きました。私はその背中に憧れて後を追いかけています。
全ての人と仲良く、楽しく生きることは無理です。学校の先生がなんと言おうとお釈迦さまでさえ無理でしたから無理なもんは無理です。そこで悩む必要はありませんよ。でも、こうして落ち込むことができるのは、きこさんが誠実に生きようとしている姿勢の裏返しでもありますから立派です。
仲の良い友達との時間を大切に、上手くいかない人とは付かず離れず、危険な人からはそれとなく離れて強かに生きてくださいね。強く(つよく)ではなく、強か(したたかに)です。
基本的には人間は孤独
私の恩師(高僧)は若いころの私に、「どこでどんな罠が仕掛けられているか分からないのが世の中なんだ。だのに君はひとを信じすぎる」といってよく私をたしなめつつ嘆いておられました。
若いころの私はそのお言葉の意味が分からなくて、ひとを信じられなくないくらいなら生きている価値などない、と思っていました。しかし、それは間違いで、恩師のおっしゃる通りでした。。なお、ここでいう、「世の中」とか「ひと」というのは、お坊さんの世界および個々のお坊さんのことです。お坊さんでさえそんなものです。学校の先生がわいせつ事件や横領などでお縄になったという事件を聞かない日はないくらいですから、聖職者といってもそんなもんです。
こう考えると、この世は基本的に娑婆で修羅の巷なのでしょう。個々の人間もあなたや私を含め、みな自己中心的に生きていている、つまり自分の都合で生きているものに過ぎません。
ですが、この世にはときとして素晴らしい出会いがあり、信頼できる誰かと、「至極例外的に」巡り合うこともできますね。そういうかけがえのないごく限られた方との関係を大切になさるのはよいことだと思います。そして、人間は基本的に孤独な存在であり、信じられる人を探すより、他者に信じられる、他者から認められる人間になろうとすることではないか、すでに亡くなった恩師の生き方を振り返り、そんなふうに思います。
幸せに気付ける自分かどうか
初めまして、霊河太樹(よしかわたいき)と申します。
抱えているお悩みをhasunohaに投稿していただき、有難うございます。
まず、他人は自分を映す鏡です。
自分の心の状態や言動をそのまま映し、そして自分に返ってきます。
意識的に傷つけることをどうしてもやめることは出来ませんか?
人にイライラや憎しみの類いを向ければ、返ってくるものは同じモノです。
ひとまず、意識的に傷つけようとするのはやめませんか。
“必ず誰かに無視とか悪口”を言う人は
その仲のいい友達の中に現れるのですか?
そうでなければ、誰に無視されようと悪口を言われようと、
今、自分と仲良くしてくれている、今自分を好きでいてくれている目の前の人をしっかり愛してあげて下さい。
そしてその目の前の人の、大切な人に、自分がなる、ということを心掛けて下さい。
自暴自棄になって大切な人、身近な人にすら心を向けられなくなってしまったらそれこそ孤独感は増します。
きこ様は決して悪いことをしているわけではございません。
ただ周りを気にして、自分の幸せというものに気付くことが出来ていないのではないかと思います。
「ただ毎日を幸せに過ごしたいだけなのに...」と落ち込むことは簡単です。
大事なのは
“今幸せかどうか”ではなく、“幸せに気付ける自分かどうか”ですから。
何かの失敗や出来事に対しマイナスばかり積み上げるのではなく、
・美味しいご飯を食べた
・天気が良くて気持ちがいい
など、当たり前に対して改めて幸せを感じ、ありがとうと思うことを習慣にされると
少しづつ自分の幸せはこれだと思うものが作られ、人に作用されることは少なくなります。
文中に「自分がされて嫌なことは人にしない」と出てきましたが、そうと考えると、これも、あれも嫌かもしれないと考え始め、人を想って行動出来なくなります。
「自分がされて嬉しいことを人にする」と考えると、お節介になるなど失敗もありますが、周りに幸せになる人が増え、感謝をしてもらえたり笑顔を向けてもらえたりします。
どうせ考えるならこっちの方が楽しいですよね。
あくまで考え方の一つです。是非参考にしてみて下さい。
長々と失礼致しました。
また何かモヤモヤした際はいつでもhasunohaに来て下さい。
有難うございます。
霊河 太樹
本当の友達を探そう。
生きるのが嫌になるのって多くは対人関係。
より良く関われるものが見つからないんだと思います。
友達は沢山いなくていい。
本当にゆっくり話し合える友達なんて人生に数人です。
あなたはまだその友達に出会っていないだけ。
あなたをイジメたり苦しめる友達は、友達のつもりでも、友達というラベルが貼ってあるだけで中身は別のジュース。
それは友達ではないのです。
ただの人なのです。
距離を持ちましょう。縁を切りましょう。
私も、合わない友達とは、無理して付き合っていません。
あなたに相応しい友達は、相手も待っているはずです。
出逢える日まであきらめてはいけません。
さて、それとは別に、あなたに持ってほしい友達。
それは、心でもなく、世界。
世界は友達なのです。
でも、心というフィルターがそれを妨害するのです。
心はある種の思いを起こすと、それがネガティブガスになって自分の心を苦しめるのです。
自分の中のガスによって、世界の素晴らしさを見えなくさせたり、世界の悪い所だけを見せようとします。
自分のネガティブガス、ネガティブフィルターを交えないで世界を感じてみましょう。
その時あなたは、自分の素晴らしさに気づくはずです。
自分を押し付けない
みんなと仲良くしたい、でもなかなかできないのは世の常のような気がします。
私も悩むことがあります。
相手のことを思って一生懸命するのですが、いつも反対の結果になって、傷つけたり困ったことになったりと、なかなか分かってはもらえなかったりします。
そんなとき考えるのは、本当に相手の立場に立って物事を考えていたのか?ということです。
そんなときは、だいたい相手のことを考えるふりをしながら、根本は自分目線になっていたりします。
直そうと思ってもなかなかこれが難しい。
私は相手に良かれと思ってしたことで、怒られたり不快な感情を与えてしまったら、まずは心から謝っています。
「せっかくいいと思ったのに」
は無しにして、元は相手を思いやって始めたことならば、最後まで相手を思いやりを持って接すれば何かが変わると思います。
私も努力している真っ最中です。
怨憎会苦(おんぞうえく)は誰にでも
憎らしい人、嫌いな人と出会う苦しみは、誰にでもあります。
また、誰でも、他人から誉められることと批判されることの、両方を経験します。
だから安心してください。
その人生、普通です。
大丈夫・あたりまえ・おたがい様。
楽になりたいとのことですが、今この瞬間、ショック死するほどの苦痛は生じていないはず。
「頭で思ってたほど辛くないな、苦しみはあるが不幸ではないな、孤独感はあるが独りきりではないな」と思ってください。