皆様に大変ご好評をいただき、ご質問が殺到しています。

回答が追いついておりません。お坊さんから丁寧にご回答いただくため質問受付数を制限させていただいております。大変申し訳ございません。

亡くなった愛するお父さんに私の声は聞こえていますか?

この世にいる者は、あの世にいってしまった人に対して、話しかけたりしてる声は、ちゃんと聞こえているのでしょうか?

私は、四十九日が過ぎたら、亡くなった人の魂は、もう遠くに行ってしまって、聞こえていないような気がします。霊感のある人なら、そういう事もわかるかもしれませんが、全く霊感がありませんので。

私もお母さんも、毎日仏壇の前でお父さんに話しかけたり、朝はご飯や果物、おやつの時間には、お父さんが大好物だったコーヒーや米菓子を仏壇にお供えしています。お父さんだけではなく、もう10年以上前に亡くなったおばあさんやおじいさんの分もちゃんとお供えします。

どんなに前に亡くなった人にも、ちゃんとこの世にいる人の声が聞こえているかを知りたいです。

つまらない質問ですいません。

ご回答よろしくお願い致します。

運命・見えない力
有り難し 228
回答 3
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

今でも、あなたとお父さんは繋がっています

蓮見さんへ
あなたの声は、届いています。
でも、住む世界が違うので、届いていることを
直接あなたに話しかけて、伝えることはできません。
あなたがピンチのときは
お浄土から還り来て、あなたを良い方向へ導いて下さいます。
信じられないかも知れませんが
あなたにお父さんの遺伝子が受け継がれているように、
今でも、あなたとお父さんは繋がっています。
その導きが、どういう形で現れるかは
誰にも分かりませんが
心を澄ませば、伝わってくるのがわかります
あなたの行きつくさきで
また、会うことが出来るでしょう。

亡き人の声を聞き、亡き人に遇う

亡き人に私たちの声が届いているのか

気になるところです。届いてほしいと思わずにはおれません。しかし悲しいかなそれを確かめるすべもありません。

死後があるのか、ないのか。あるとしたらどのような状態なのか。宗派や僧侶個人の見解としても様々な内容があると思いますが、いずれにしても明確なものはないと思います。お釈迦様もあらゆる場面で共通して明確に死後を説いたということはないと不勉強ではありますが私は聞いております。
おっしゃられる49日までは云々や、魂、霊などについても仏教というよりは他の宗教や土着の信仰や俗説などが入り混じって伝わっている習慣かもしれません。
仏教がその習慣にのっかり、仏法に触れる機会としていただくために大切にしているという面もあろうかと存じます。

さて、私の声が届いているかはわかりませんが、「私が亡き人の声を聞く」ということはあると私は感じます。

例えば、蓮美様ならばお父様の好きな米菓子を食べながらコーヒーを飲み、お父様の思い出話を語ったりする時にお父様の声が聞こえることはないでしょうか。

お父様が大事にしていた事、お父様に教わった大切な教えを胸にする時、にお父様の声が聞こえることはないでしょうか。

それは物理的に「声が聞こえる」というよりは「お父様の心に触れる」という感覚かもしれません。
その時、私たちは亡き人に遇うのでしょう。「会う」と「遇う」の違いについて私は次のように聞いております。

「会う」とは会う日や時間を取り決め約束して会うという意であり、対象は人です。

「遇う」とは図らずも、思いがけず偶然に遇うという意であり、対象は人に限らず物事や心も含まれます。また、それが個人にとって決定的となるようなであいであることを「値遇」と呼びます。

私たちは亡き人と生前のように会うことを決めて物理的には会えませんが、ふとした時にその心に触れて「遇う」ということがあります。その時、聞こえた声に返事をする。亡き人の心に触れたことに喜びと寂しさが入まじり、声をかけずにはおれない。
あるいは、こちらから呼びかける所に亡き人に「遇う」。たしかめるまでもなく「今」その心に触れる。

亡き人と会話するとはそのようなことであると私はいただいております。

つまらない質問なんかではありません。思わず手を合わさずにはおれない質問でございました。

「見えんでも、聞こえんでも、おるぜよ」

蓮見様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

TBSのドラマ「仁」の中での最終話で、ドラマ上の歴史上登場人物の坂本龍馬が、江戸時代末期にタイムスリップした医師である南方仁先生に「先生はいつかわしらんこと忘れるぜよ。けんど、悲しまんでえぇ。わしらはずーっと先生とともにおるぜよ。見えんでも、聞こえんでも、おるぜよ。いつの日ぃも、先生とともに」 というセリフがありました。

「見えんでも、聞こえんでも、おるぜよ」の言葉に何だか感動して震えました。

亡くなられた方は、死して無になることはありません。死後も心・意識は存続して参ります。

そのお互いに存続していく中で、姿、カタチ、場所は違えども、また逢えることもあり得ます。その時まで、亡き方々を偲びながらにも、精一杯、誠実に生きて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌


質問者からの有り難し - お礼

回答して頂いたお二人の僧侶の方、こんな素晴らしい回答をして下さって、本当にありがとうございました。感謝の気持ちでいっぱいです(*^-^*)。これを読んで、ますます亡き愛するおとうさんやおばあさんやおじいさんを大切にしたいという気持ちが沸いてきました。吉武文法様のおっしゃる「会う」と「遇う」という違いも理解出来ましたし、物理的には会えなくても、心に触れるというこの感覚を大切にしたいです。また、りようよう様のおっしゃる、お父さんの遺伝子が受け繋がれていて、繋がってるという言葉にすごくうれしさを感じました。ここのサイトは、今日の朝初めて見つけました。そして、こんな励ましのお言葉を頂けた事も何かのご縁、ご先祖様のお導きかもしれません。この有り難いお言葉をこれからも心に留めておきたいと思います。

後から回答して下さった川口英俊様、回答を読んで、とても癒されました(*^-^*)。
ドラマの中で、そんな感動する言葉があったのですね。
死んだらもう何もなくなってしまう気がしてしまいますが、死後も心、意識は存続するのですね。

姿は見えなくても、お父さんがそばにいて、いつも見守ってくれていると信じて、寂しくても、精一杯生きていこうと思います。

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