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人間がたどり着く場所はいったいどこですか

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初めまして。中学3年生、受験生です。

勉強、入学、就職と進んで行っても、
結局「死」にたどり着くと思うと脱力感がぬけません。
動物たちを見ていても
別の魂に生まれ変わるのだと信じられないのです。

日々どんなふうに過ごしてゆけばいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死は脱力と結びつくものですか?

ttttt19892101さん、ご質問ありがとうございます。
人間の行き着くところは「死」であり、それを考えると「脱力感」を感じてしまう。
あなたの心持ちは、理解できるところがあります。

ところで、「死」は、どうしてあなたの中で「脱力感」(もしかすると「虚無感」?)
と結びついているのでしょう。

私が忖度するところ、「死」はすべてが終わることで、ゴールが「死」であれば、
どのような人生を送っても、結局なんにもならないと感じておられるのかと
思います。

浄土真宗の僧侶ですので、その考えに基づいてお答えするつもりですが、
「死」は、「往生」ともいい、阿弥陀さまの国に[行って生まれる]ことです。
終わりではなく、新しい始まりです。
「仏」となって、衆生を導く働きをするのです。

別の魂に生まれ変わるものではないのです。

もう一度、「死」について、考えてみてはいかがでしょうか。

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真宗山元派上西山正善寺住職

うんざりしながら、それでも過ごす

 中学3年生ですか、きっと勉強に追われている頃でしょうね。藤堂さんも書いておられますが、恐らく「今どれだけ努力したって、しなくたって、どうせ死に繋がっているんだから、何をしても(しなくても)同じだろう」という思考をされているのだろうと思います。
 或いは、輪廻ということに思いを致しているのでしょう。
 あなたの問い「人間のたどり着く所は?」に対する答えとして、「死」は確かに正解だと思います。ただ、それを一言で表す志向は、あまり役に立たないような気がします。明日、交通事故で迎える死。大地震が来て迎える死。若年で癌が見つかり、迎える死。70歳80歳になって迎える死。惚けてるかも知れません。意識清明かも知れません。病気か、事故か、飢えか、戦争か。家族がどれだけいるか、友達は、仲間は。同じ「死」に向かっているのですが、一人一人全員が異なる「死」にたどり着くのです。
 言うなれば、「どんな死を迎えたいのか?」を考え、デザインすることが、せめて人間のできうる事ではないのかと思います。そして、その直前をどう迎えるか?一日前・一年前をどう迎えるか?それを考えてもいい自由が、私たちにはあるのだと思います。
 中学3年生なら、取り敢えず死の宣告は受けていないだろうと思います。だから、「いつか来ることは分かっているが、射程が遠すぎる」のだろうと思います。先が見えないのは辛いことです。だから。
 うんざりしながら、それでも過ごす(尾﨑豊「卒業」)。今は漠然としていても、過ごす中で見えてくる。過ごしていくと「うんざりでもない、まんざらでもない」事が見えてくるかも知れませんよ。
 私も坊さんなので、自身の死を考える機会は多くあります。あなたより相当年をくっていますが、「穏やかな環境で死にたい」程度にしか考えられません。しかも、「今のところ、取り敢えずそう思っている」に過ぎません。で、その後は「阿弥陀様へお任せ(浄土宗なので)」程度です。
 今のところ取り敢えず精一杯、どんな死を迎えたいですか。紛争地域での映像や、地震・津波の映像、ドラマで人が亡くなる姿など、見たことがあるでしょう。そのイメージができてゆくと、それに向けた「今何をする?」が、おぼろげながら見えてくる事があるのです。
 あなたは、非常に真摯に「考えるべきことを考えている」と感じます。あなたの今後を、お祈りしております。

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

いつでも いま ここ が ゴール 辿り着いている 

あなたの家の最寄り駅を想像してください。
その駅はあなたにとっての始発駅。
誰かにとっての通過駅。
誰かにとっての終着駅。

あなたが出かけるとする。
その駅が始発駅。
でも人生の通過地点。
過去からの最終到達地点。

今日という日は
人生の過程、通過駅。
昨日までの決別。終着駅。
そして、今から再スタートする始発駅。

電車に乗っている時もどこかに向かっているのでしょうか?
仏陀(悟った人)は、いつでも、いま、ここを生きている。
私はどこに行ってもどこへも生きません。自分の命の@の在り処が、終着駅です。
それでいながらいつでも再スタート、通過点です。
どこかに向かうといっても、必ず家に帰りますから、今、どこかに向かっているつもりでも、帰り道の途中でしょう。
翌日はまた、どこかに出かけるから、今日の帰り道も長い目で見れば、向かっている最中、とも言えます。
言葉遊びはさておき、
何を悟って頂きたいかといえば、
「いつでも今の事しかないのだ」と気づいてください。
先を思うのも今。
過去を振り返るのも今でしょう?
過去も未来も所詮、今の一念なのです。
一念とは思い。
思いとは今の空想です。
先がどうしたこうした。
全部、今の自分の中の小さな思いであることに目覚めるべきです。
花は花。つぼみの時はつぼみを生きることが、華です。
この身はいつでも今を咲いている。
昨日は枯れ、明日の花は咲かず・明日の実は実らずとも、必ず❝今を咲いている❞。
未来すら一切行われていない。
そういう法身のありようをこそ妙法蓮華というのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

人生はテレビゲームです。

初めまして。五百羅漢寺の佐山です。

人は、死んでしまっても、誰かの心の中に残ります。
誰かが思い出してくれたり、お墓にお供えをしてくれたりします。

死んでしまった人の姿は見えなくなってしまいますが、
その人が成し遂げたことや、その人から言われた言葉などは残ります。

私はよく、人生をテレビゲームに置き換えます。
「死」という、誰にでもくるエンディングを迎える前に、
レベルを上げ、スキルを身につけ、
生きた証、爪あとを残せるように頑張り、
自分が死んでも、誰かがそれを見て、思い出してくれるといいな、と思っています。

それって、生きている時に誰かに影響を与えるより、
なんとなくスゴイことだと思いませんか?

自分のやりたいことを、時間制限の中で
やり遂げることができるかどうか、と考えたら、
脱力感など、感じている暇はないはずです。

私は、自分が納得できるエンディングを迎えるため、
日々を精進して、過ごしています。

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有り難し
おきもち

浄土宗の佐山と申します。 浄土宗教師の資格を得たあと、10年間のサラリーマン生活ののちに、この羅漢寺にお世話になり、2014年に住職として晋山いたしました。 現在は、「ここより」というサイトの編集長を務めています。 まだまだ悩める道の途中ですが、少しでも皆さまの力となれるよう、がんばります。

質問者からのお礼

今は苦しいことから逃げたいだけなのかもしれません。
その時その時の感情や行動を大切に生活してみます。
ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ