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人間がたどり着く場所はいったいどこですか

初めまして。中学3年生、受験生です。

勉強、入学、就職と進んで行っても、
結局「死」にたどり着くと思うと脱力感がぬけません。
動物たちを見ていても
別の魂に生まれ変わるのだと信じられないのです。

日々どんなふうに過ごしてゆけばいいのでしょうか。

生きる意味
有り難し 33
回答 4

質問投稿日: 2015年8月7日 22:01

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

死は脱力と結びつくものですか?

ttttt19892101さん、ご質問ありがとうございます。
人間の行き着くところは「死」であり、それを考えると「脱力感」を感じてしまう。
あなたの心持ちは、理解できるところがあります。

ところで、「死」は、どうしてあなたの中で「脱力感」(もしかすると「虚無感」?)
と結びついているのでしょう。

私が忖度するところ、「死」はすべてが終わることで、ゴールが「死」であれば、
どのような人生を送っても、結局なんにもならないと感じておられるのかと
思います。

浄土真宗の僧侶ですので、その考えに基づいてお答えするつもりですが、
「死」は、「往生」ともいい、阿弥陀さまの国に[行って生まれる]ことです。
終わりではなく、新しい始まりです。
「仏」となって、衆生を導く働きをするのです。

別の魂に生まれ変わるものではないのです。

もう一度、「死」について、考えてみてはいかがでしょうか。

2年9ヶ月前

うんざりしながら、それでも過ごす

 中学3年生ですか、きっと勉強に追われている頃でしょうね。藤堂さんも書いておられますが、恐らく「今どれだけ努力したって、しなくたって、どうせ死に繋がっているんだから、何をしても(しなくても)同じだろう」という思考をされているのだろうと思います。
 或いは、輪廻ということに思いを致しているのでしょう。
 あなたの問い「人間のたどり着く所は?」に対する答えとして、「死」は確かに正解だと思います。ただ、それを一言で表す志向は、あまり役に立たないような気がします。明日、交通事故で迎える死。大地震が来て迎える死。若年で癌が見つかり、迎える死。70歳80歳になって迎える死。惚けてるかも知れません。意識清明かも知れません。病気か、事故か、飢えか、戦争か。家族がどれだけいるか、友達は、仲間は。同じ「死」に向かっているのですが、一人一人全員が異なる「死」にたどり着くのです。
 言うなれば、「どんな死を迎えたいのか?」を考え、デザインすることが、せめて人間のできうる事ではないのかと思います。そして、その直前をどう迎えるか?一日前・一年前をどう迎えるか?それを考えてもいい自由が、私たちにはあるのだと思います。
 中学3年生なら、取り敢えず死の宣告は受けていないだろうと思います。だから、「いつか来ることは分かっているが、射程が遠すぎる」のだろうと思います。先が見えないのは辛いことです。だから。
 うんざりしながら、それでも過ごす(尾﨑豊「卒業」)。今は漠然としていても、過ごす中で見えてくる。過ごしていくと「うんざりでもない、まんざらでもない」事が見えてくるかも知れませんよ。
 私も坊さんなので、自身の死を考える機会は多くあります。あなたより相当年をくっていますが、「穏やかな環境で死にたい」程度にしか考えられません。しかも、「今のところ、取り敢えずそう思っている」に過ぎません。で、その後は「阿弥陀様へお任せ(浄土宗なので)」程度です。
 今のところ取り敢えず精一杯、どんな死を迎えたいですか。紛争地域での映像や、地震・津波の映像、ドラマで人が亡くなる姿など、見たことがあるでしょう。そのイメージができてゆくと、それに向けた「今何をする?」が、おぼろげながら見えてくる事があるのです。
 あなたは、非常に真摯に「考えるべきことを考えている」と感じます。あなたの今後を、お祈りしております。

2年9ヶ月前

いつでも いま ここ が ゴール 辿り着いている 

あなたの家の最寄り駅を想像してください。
その駅はあなたにとっての始発駅。
誰かにとっての通過駅。
誰かにとっての終着駅。

あなたが出かけるとする。
その駅が始発駅。
でも人生の通過地点。
過去からの最終到達地点。

今日という日は
人生の過程、通過駅。
昨日までの決別。終着駅。
そして、今から再スタートする始発駅。

電車に乗っている時もどこかに向かっているのでしょうか?
仏陀(悟った人)は、いつでも、いま、ここを生きている。
私はどこに行ってもどこへも生きません。自分の命の@の在り処が、終着駅です。
それでいながらいつでも再スタート、通過点です。
どこかに向かうといっても、必ず家に帰りますから、今、どこかに向かっているつもりでも、帰り道の途中でしょう。
翌日はまた、どこかに出かけるから、今日の帰り道も長い目で見れば、向かっている最中、とも言えます。
言葉遊びはさておき、
何を悟って頂きたいかといえば、
「いつでも今の事しかないのだ」と気づいてください。
先を思うのも今。
過去を振り返るのも今でしょう?
過去も未来も所詮、今の一念なのです。
一念とは思い。
思いとは今の空想です。
先がどうしたこうした。
全部、今の自分の中の小さな思いであることに目覚めるべきです。
花は花。つぼみの時はつぼみを生きることが、華です。
この身はいつでも今を咲いている。
昨日は枯れ、明日の花は咲かず・明日の実は実らずとも、必ず❝今を咲いている❞。
未来すら一切行われていない。
そういう法身のありようをこそ妙法蓮華というのです。

2年9ヶ月前

人生はテレビゲームです。

初めまして。五百羅漢寺の佐山です。

人は、死んでしまっても、誰かの心の中に残ります。
誰かが思い出してくれたり、お墓にお供えをしてくれたりします。

死んでしまった人の姿は見えなくなってしまいますが、
その人が成し遂げたことや、その人から言われた言葉などは残ります。

私はよく、人生をテレビゲームに置き換えます。
「死」という、誰にでもくるエンディングを迎える前に、
レベルを上げ、スキルを身につけ、
生きた証、爪あとを残せるように頑張り、
自分が死んでも、誰かがそれを見て、思い出してくれるといいな、と思っています。

それって、生きている時に誰かに影響を与えるより、
なんとなくスゴイことだと思いませんか?

自分のやりたいことを、時間制限の中で
やり遂げることができるかどうか、と考えたら、
脱力感など、感じている暇はないはずです。

私は、自分が納得できるエンディングを迎えるため、
日々を精進して、過ごしています。

2年9ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

今は苦しいことから逃げたいだけなのかもしれません。
その時その時の感情や行動を大切に生活してみます。
ありがとうございました。

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