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先祖供養の方法

回答数回答 4
有り難し有り難し 49

こんにちは。
ご先祖様の供養の仕方について質問があります。

我が家の父方の先祖はまわりにうらまれるような汚いやり方での金儲け
母方の先祖も、異性にかなりだらしがなく(少しだらしがないというレベルではなく恨みを買うレベルでの)

私の祖先はかなり業が深いと思います。

そのせいなのか因果応報といいますか、今、父方の祖父母、母方の祖父母ともにかなり酷い目に遭っています。
ありえない不運が父方母方の祖父母の代、そしてその子供の代、そしていまは我々孫の代にまで及んで来ています

思い返すと墓参りなど子供のころ以来いっておらず因果応報だけではなく先祖供養ができていないせいなのかと思うようになりました。

親戚に聞いても、かなり遠方に墓地があることしか分からずくわしい墓地の場所は分からないとのことでした

私の実家にも、どの親戚の家にもお仏壇などはありませんし私も一人暮らし独身のため、お仏壇は家にありません。

小さいころいらい、先祖供養をしていないということになります。

このような場合、私にできる先祖供養はなんでしょうか?
先祖が恨まれた人たち、悲しみながらうらみながら死んでいった名前の分からぬ人たちへの謝罪もいるのでしょうか…
とても悩んでいます。

《父方》
父方の祖父母
揃って別々の時期ですがころんで頭を打ち入院、脳内出血大手術
退院したら今度は階段から落ちくびのほね骨折
退院する日に転んで腰の骨骨折して入院
祖父母度重なる大怪我
叔父と父はそれが原因ではないものの精神病に
母は重篤な皮膚病になり

《母方》
母方の祖父母
祖父が祖母の妹や姉妹に手を出しまくり、かなり女性にだらしがない人
すったもんだの末祖父母離婚

母の妹(叔母)ダブル不倫の末すったもんだの末じゅくねん離婚

妹は変な男に騙され自殺未遂、自殺寸前
愛犬は原因不明の病

全て最近の出来事です。
いくらなんでもおかしいかと…
祖先供養をするべきなのか、するとしたらどのような方法を取れば良いのか調べているのですが分かりません。

長くなりました
どなたか助けてください。
お知恵を貸していただけるお幸いです。
何卒よろしくお願い申し上げます。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

先祖供養は敬愛と感謝。因果応報は自業自得。

亀山純史と申します。私なりの回答をさせていただきます。

先ず、ご先祖を思いやる気持ちは大変結構なことです。しかし、質問者のなすさんの場合、どのようなお気持ちで先祖供養を行うことになるのでしょうか?質問の内容から判断すれば、今まで先祖供養をしてこなかったので、今、自分たちに災いが起きている、だから一刻も早く先祖供養をしたい、という思いは、自己本位からの供養ではありませんか?本来の先祖供養は、ご先祖様が、数々の苦難を乗り越えてくれたからこそ、今の私がある、ということへの敬愛と感謝の念に基づくものでなければいけないと思います。

次に因果応報についてですが、仏教の場合、先祖の因果が子孫に及ぶという思想はありません。仏教は自業自得です。自分の行為の報いは自分が受けるのです。ちゃんとした先祖供養をしていても、災いは因と縁によって起こるのです。東日本大震災で犠牲になった方を、そして、いじめにあって自ら命を絶った子どもを、先祖の業によるものだ、という人がいたら、それは仏教ではありません。

以上、ご参考になさってください。

補足
私の宗派の浄土真宗では、基本的に先祖供養ということは言わないのですが、今回の質問者の立場に立って回答させていただきました。

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おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

あなたがしっかり生きること

大変なことが色々とあったようですが、人生大小色々ありますが、だれにでも何かしら問題となることを抱えて生きているものです。

そうした出来事を全て先祖供養と結び付けるのは違うように思います(因果関係はないでしょう)。仏教では不邪淫戒というものがあります。男女関係にだらしないことなくしっかりと生きていくことです。これはあなたがしっかりと生きていけばいいのです。

先祖供養も、気にされているようですね。お墓の場所が分かればいいのですが、もう見つけるのは難しいのでしょうか。お寺も何にもわからないのであれば、手を合わせることしかできないでしょう。そして、あなたが、しっかりと生きてください。それば何よりの供養でしょう。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

先祖供養というより生き方の問題ですが

かなりお困りのようですが、残念ながら先祖供養で事態が好転するということはないと思います。一人ひとりの生き方が結果にあらわれているのでしょう。生き方を変えないと何も変わらないし、それが唯一の解決法です。霊験あらたかそうなお坊さんにお祓いのお経をあげてもらっても気休め以外にはなりません。

先祖供養の仕方についてはよい本がありますので、ご紹介しておきます。『仏教の正しい先祖供養―功徳はなぜ廻向できるの?』 (サンガ新書) 新書, 2008/10,藤本 晃 (著) です。

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おきもち

個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

無宗教は人間の都合主義

私は学生時代、仏教も何も信じていない時期がありました。
いわゆる無宗教ですね。
無宗教って今考えると最低の人生でした。
宗教心が無いという事は、自分の都合が中心のものの見方なのです。
家が仏教徒でも、本人がどうかなのです。無宗教の本質は本人に宗教心があるかどうか。
家が仏教徒でも、自分に宗教心が沸かなければそれはまだまだ皆無宗教者=エゴを中心とした生き方なのであると言わざるを得ません。
先祖=自分を自分足らしめてくれたものに対するうやまいの気持ちがない。
だから、感謝や報恩の気持ちも沸かない。
大事にするのは自分に良くしてくれる人だけでした。
思い当るところがありましたら、先祖供養も大切ですが一時しのぎ萎え施供養はまるで意味がありません。ちゃんと宗教心を持ってください。
自分が自分が、私が私が、という気持ちを離れることです。
それが家族の中にやさしさが生まれ、日本が優しくなる為の大切なお心です。
失礼いたしました。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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