人の死の悲しみ
人の死はそんなに悲しく辛いものでしょうか?
私の友人が死んでもうすぐ一年になります。
葬式であれだけ泣いていた周りの友人達は何も変わることなく今日を生き笑っています。
もう、死んだ友人の話をすることもありません。
彼がいなくなっても、寸分の狂いもない日々が続いています。
死んだ彼がたいした人間じゃなかったから?
今を生きる人間は死んだやつにかまっていられないから?
今後も僕たちは彼の死を忘れ、のうのうと生きていくのですか?
一番悲しんだであろう彼の親だってすぐに人生を終えてしまうというのに!
私は人生上手くいっておらず、そろそろ潮時かと考えております。残された人間が悲しまないのであれば人生リタイアしやすいのですが…
うわべではなく、人の死に悲しむのは極わずかのこころの弱い人々ではありませんでしょうか?
「あなたが死ぬと私は悲しい」
本音をお教えください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
本当にみんなはのうのうと生きているのかな?
私も大学生の頃、同期の友人が交通事故で亡くなりました。
若くして友人を亡くすショックと辛さは、本当にきついものですよね。
その友人の死からまだ1年経っていないのに、普段の生活に戻ってニコニコ笑っている友人達がそんなにも許せませんか?
では、ハイライトさんは、ご友人を亡くされてから約1年の間、ずっと泣き暮れていらっしゃったのですか?
のうのうと生きることが、そんなに悪いことなのでしょうか?
ちなみに「のうのう」の意味は、心配が無くなってのんびり過ごす、という状態を言うのだそうです。
ハイライトさん的には、どれぐらい泣いて過ごせば、笑ってもいいとお考えなのかな?
1年では足りない?5年くらい?
でもそんなこと言ってたら、今生きている人はみんな笑っちゃいけないことになってしまいますよ。
若いうちはそうでも無いかもしれませんが、私くらいの年齢になってくると、身内だけでも結構な人数と死に別れる経験をしました、友人まで合わせると凄い人数になると思います。
そういう経験を経て思うことです、私は笑っていいと思いますよ。
あなたの周囲の笑っている人たちは、忘れてしまったのではなくて、乗り越えたんですよ。
私どもの宗派では、百ヶ日忌の供養のことを卒哭忌と呼びます。
分かりやすく言えば、いたずらに嘆き悲しむのは100日で卒業しましょうということ。
死は人生の一部です。
みんな、いつか必ず死ぬんです。
けれど、死を受容するということは、生を否定することとイコ-ルではないと私は思います。
友や愛する者との死別は辛いものです、けれど、いつまでも嘆いてはいられません。
だって私たちは今、生きているんだから。
生きていれば腹も減る、眠くもなる、泣いたり笑ったり怒ったり、その時々で感情も変わってゆくよ。
人ってそういうもんじゃないかな。
具体性に乏しいですね
頭でっかちだなぁ、というのが第一印象です。
>彼がいなくたって、寸分の狂いもなく…
狂いが生じたかどうか、貴方は感知できるのですか?
貴方がこの質問を起こしていること自体が、既に「そうでなかったら」との違いですのに。
>今後も僕たちは彼の死を忘れ…
忘れている瞬間もあるでしょうし、思い出す時もあるでしょう。現に私も、この質問を見て、自分の友達を20代で亡くしたことを思い出しました。
お葬式で泣いた人たちが今でも泣き続けているのではない。それと同じように、「今泣いていない人たちが、もう思い出すことはない」というのも間違いです。
>人の死に悲しむのは…
ごく僅か、というのは割合ですか?具体的人数ですか?心が痛むというのは、相手との距離感や関係によって強さが異なると思いますが
>こころの弱い人々では…
私はそれで構いませんよ、「こころの弱い人」で。
最初にあげた「今日を生き笑っている」友達は、貴方のいう「こころの弱い人」ですか?ご両親は?貴方は?
みんな、「こころの弱い人」ではないのですか?
だとすれば…それが「ごく僅か」ではありませんよね。
最後に。
「貴方=ハイライトさんが死んだら、佐藤は悲しいか?」 はい、悲しいです。せっかくやりとりを持った、縁ができたというのに、「人生リタイア」とか、大して生きてもいないだろうに、貴方が死んだらね。
あと、一般論ではなく、貴方については「貴方が死んだら、私は怒る」も混じりますね、多分。
死は悲しいです
拝読させて頂きました。自分の大切な方や親しい方やお世話になった方が亡くなることはとても悲しいつらいことです。
自分を産み育ててくれた親が亡くなることは悲しいことです。
また自分の子供が幼くして亡くなったならばそれは身を切られるような大変な悲しみにおそわれることです。
世の中が常に慌ただしくなって変化している為に一人一人の存在の大きさや命の大切さが軽はずみにされたりさも無かったことのように扱われるかもしれませんが、それでも一人一人の存在はあり大切だと私は思います。
自分の実体験の中で一番感じることでもあります。私達は独りで何でもできて独りで存在して生きているわけではありません。
与えられた生命をつないで生きています。親やたくさんの方々に面倒みて頂いて生きていますし、朝昼晩とたくさんの生命を頂いて与えられて生きています。
だから己れ自身の生命も大切ですし、周りの人たちの生命も大切です。そして自分が亡くなることもつらいと思いますし、親しい方々の死も悲しくつらいことです。
諸行無常は世の習いですから誰もが亡くなることは必然です。それを受け入れて執着することを捨て去ることが仏教の教えです。
ですがいざ我が身のことを振り返るとなかなか受け入れることが難しいのも人間です。
生きること死ぬことは私達が生きていく中での最も重要なテーマです。
あなた自身もどうかこれからの人生の中でじっくりと見つめながら生きて頂きます様にと思います。
どうかこれからの人生の中で大切なご縁を結びながらお健やかにご成長なさって頂きます様心よりご祈念申し上げます。
「あなたがもしもまだ輪廻にあるならば私は悲しい」
ハイライト様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
死は悲しいものですが、それよりも仏教では、全ての衆生の輪廻の苦しみについても大いに悲しむもの(大悲)となります。
そして、大いなる憐れみの心(大慈)を起こして、いずれは全ての衆生がこの迷い苦しみの輪廻から脱しますように、そのために悟りを目指したいとしての菩提心を起こし、仏道をしっかりと歩んで参りたいものでございます。
私たちの本音は、「あなたが死ぬと私は悲しい」ではなくて、「あなたがもしもまだ輪廻にあるならば私は悲しい」となります。
全ての衆生が救われることを目指して、是非、共に仏道を歩んで参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
乱文申し訳ありませんでした。
お答え頂きありがとうございました。