空の思想について教えて下さい
空の思想というのは一切の枠組みを設けないと言うことでしょうか?
例えば世間ではいちいち善悪を持ち込んで価値判断して断罪しますが、空では一切の枠組みを設けないので、善悪がなく、完全に自由と言うことになります。
また、善悪が無いことで安心できない人が大勢いますが、それも安心と言う枠組みを設けなければ完全に自由でいられます。
また、安心してもそれが本当に安心なのか心配する人もでてくると思いますがそれも同じように心配と言う枠組みを設けないでいれば自由でいられます。
脳内で湧き上がるあらゆる妄念には枠組みがあって枠組みを当てはめることで苦悩が生じますが、このようにその都度、一切の枠組みを取っ払うことで完全に自由な空という物が発現するのでしょうか?
まとめると、あらゆる場面で枠組みを設けなければ全ては幻想と言うことになりそれが空という物でしょうか?
不立文字を無視して質問しましたが、ご回答お願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
この身心の上のナイナガラの滝
そもそも空は「思想」と理解しない方がよいと思います。はじめの一歩を誤れば永遠に辿り着きません。
空の中身を説くこと自体が説明であって「思想」に落とし込んでしまうものは、理論的でお役に立たんものであることは、あなたもさんざん学んできて何となくお気づきではないでしょうか。
「一切の枠組みを設けない・◎◎と言う枠組みを設けないでいれば自由でいられます」というご説明も結構ですが、であれば、そもそもその思考もワク組みです。思考という人間の頭のワク内の一環であるのではないでしょうか。
真実の空、実際の空に思考の手続きは不要です。
目を向ける所が「思考」ではなくなれば空は即座に、明らかです。
だから僧侶は瞑想、坐禅を❝修❞する。思考ではなく事実を❝思惟❞する。思惟は思考ではない。
すると、この身心に生ずるモノの現われが滝を流れ落ちる水の様に、ありながらなくないながらにあるものと分かるのです。あると知覚された時には、もうすでに前の水ではなくなっている。ないながらにある姿であるという事が照見されるのです。
滝に流れ込む水がいつも新しく前の水ではなくても、そこを人間は「滝」と呼ぶ。
4つの視点で滝を追ってみましょう。
①滝の水の流れ落ちる、まさに滝という、水野流れる様子。
②変化しない岩
③流れていった水が今、まさに走って流れている🌊現在地点
④それを眺めるこの自身の目の働き
③のリアルタイムで流れて行っている所は、もう"滝"ではなくなっているでしょう。
無限に変化して流れ続けています。
同時に大切なのは④。この自身の知覚の働きが、冒頭の文字も流れ、今の◌∇☐をみています。
目を放せばもう別のモノをみています。
別のモノをみた時に、前のものがありません。
ガチャン!物音が聴こえた。音と同時に残り物がありません。
🍜 香りがした。その香りもありません。
食すれば🍚味わい。のど越し過ぎれば味も残らず。
感覚も想念もみな同じです。
だから、空は「思想」にしてしまうとこの身の上空を理解できなくなるのです。
空とは人間の思想・思考を超えた実相の様子を指し示すコトバ。
だから、空を❝思想❞としていること自体が矛盾と距離があるのです。
まずは自分の感覚の作用としてみてみましょう。
この身心は常に空のナサレがおこなわれる。いつも救われている所に眼を向けてみましょう。詳しくは当山禅会にて。
「空と縁起」
何処にか塵埃有らん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「何処にか塵埃有らん」・・六祖慧能禅師の至言の一節でございますね。。
「空」を正確に理解するのは、やはりそれなりに時間が掛かるものであるかとは存じます。
ダライ・ラマ法王猊下様も、50年、60年、毎日考えてこられて、やっと最近になり少し理解できてきたばかりであるとおっしゃられている程でございます。。
少しだけ拙生のこれまでの拙い学びからアドバイスさせて頂くとするならば、「空」を理解するのは、「縁起」と共に理解していく必要があるというところでございます。
「空」と「縁起」を同じ意味で捉えることができるまで、是非、学びを進められて頂けましたらと存じます。
参考と致しましては、ダライ・ラマ「菩提心の解説」(大蔵出版)がお薦めでございます。
共にしっかりと理解できるまで頑張って参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口英俊様
原因と結果の法則である縁起を元に空を会得すると良いのですね。
ありがとうございます。