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自分の顔

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こんにちは。

今回は自分の容姿について相談させて頂きたいと思っています。

自分で言うのはとてもおこがましいのですが、

よく他人に容姿を褒められます。

そのほとんどはお世辞や社交辞令だと思っているのですが、自分は自分の顔が本当に嫌いで、褒められるたびに嫌な気持ちになってしまいます。

鏡や写真で自分の顔を見るのが本当に苦痛で、他人の容姿がとても羨ましいです。

他の人も同じようなことで悩んでいるものなのでしょうか。

また、自分に自信をつけたり、自分の容姿に関して悩まないようにするにはどうしたらよいでしょうか。

よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自己評価よりも他者からの評価。他者評価よりも…。

私は自分の顔写真を載せるとストーカーが増えますので別の写真を使っています。
町で托鉢をしているとファンやパパラッチの方に追いまわされて、とても托鉢になりません。(冗談は顔だけに)
この時期どういうわけか発情した猫が沢山後をついて来てきます。私にどうしろというのでしょう。🐈🐈🐈
犬なんかも『カムイ外伝』の「犬万」を塗った人くらい大量によってきて困ります🐩🐕アオンアオン🐕私にどうしろというのでしょう。
これもきっと、あまりにも顔がイケてるせいでしょう。
あまりにも、顔がイケているせいで法話にすら集中してもらえません。(冗談は顔だけに)
シロモトクリニックと高須クリニックに行ってブサイクにしてくださいとお願いしたのですが、メスを入れるのが畏れ多いと断られてしまいまして。
よって、毎晩寝る前に漬物石を顔に乗せて"のし"てます。(冗談は顔だけに)
冗談はここまで。
道元禅師は「恥ずべくんば明眼の人の言を恥ずべし」とお示しです。
これは、どうせ耳を傾けるなら本当にものの道理に通じた人からの言葉や評価を大切になさいという事です。
私と同じく顔がイイというのは結構なことです。(冗談は…以下略)
この世は実際、見た目の良さが優先判断されてしまう悲しい現実があります。
クラシックの世界では同じレベルの技術、センスを持っている演奏家の場合、一般ウケするイケメン・見た目美人の方が優遇されてしまうのだそうです。
その方が集客力があり業界も盛り上がるのでしょう。
どこの世界もそういうのはあります。
顔ではない品質が問われるべき分野であっても顔や世襲で優遇される分野は、いつの時代でもあるものです。もし、音楽の世界で音楽の質より顔が人に好まれるという事で評価されたタレント演奏家が増えれば音楽の品質が低下します。
これが仏教だったら末法です。
「人間中身こそ大事」は真実です。ただみる目のない審査員が厳正に審査しないだけのことです。
だからこそ、私のようなイケメンは見た目で判断されない様に中身を持つことが大事だと感じました。(ホント、冗談は顔だけに)
あなたもビジュアル面で恵まれているのですから、そうであってもなくても、どのみち顔ではなく中身・内面を磨かれてはいかがでしょう。
顔で恵まれている分、他の人に何かできることで助けてあげてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

人は見た目が九割

こんばんは。若々しいお悩みで、正直な想いを語られているな、と思います。
表題の本、お読みになりました?「見た目」とは何だろうか?それを問う本なのです。「見た目がダメなら九割ダメ、見た目がよければ九割成功!」という本ではないのです。
貴方が言う「容姿」が何なのか分かりませんが、「自信がない」、つまり「中身がないのに外見ばかり褒められるのが嫌」と思っているのかな、と推測します。その問題意識は正しい。今はちょっと見で評価されているかも知れませんが、それは束の間の価値観。それに頼らないという姿勢は正しいです。
でもね、こういう戦略も考えられる、と聞いてください。
「自信を持つ」、自分の何に関して自信を持ちたいのかも、きっと見えていないのでしょうけれど、私からすると「コミュニケーション上手」になれる素質があるんじゃないかしら、と思います。
きっと、貴方の第一印象は良いのでしょう。ということは、他人と話をする機会は多く巡ってくると思います。今のところは会話を転がすの、得意ですか?聞き上手ですか?コミュニケーションの上達は、いくつかの原則を学び、経験値を積むことで達成されます。経験値を積むのに有利なポジションにいるなら、それを活用しない手はありませんぜ。
聞き上手、そしてツッコミ上手になれば、「コミュニケーションについては自信があります」と言ってよろしいと思います。ここを追求してみては如何でしょうか。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

顔では無く、中身の魅力を、心の魅力をアップしましょう。
そうすれば、自然に顔はあまり気にならなくなると思いますよ。
中身の良さが自然に顔にも現れるものです。
自分の欲に左右されない強い心を持ちましょう。
明るく、正しく、仲良く、生きましょう。
物事の本質を見極める目を育てましょう。
生活習慣を整え、適度に体も運動して鍛えましょう。
知識と経験を積んで、判断力を身につけましょう。
結果には必ず原因があるというこの世の理を知りましょう。
あなたが人間的に魅力的になることを願っています。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

質問者からのお礼

回答していただき、誠にありがとうございました。

心の中身を綺麗にしていけるように頑張ります。

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