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大好きな我が子を叩いてしまう

回答数回答 2
有り難し有り難し 64

初めまして。
私は1歳4カ月の男の子を育てている1児の母です。
息子は可愛くて可愛くて、仕方ありません。
たくさんお手伝いもしてくれますし、
パパのことも大好きですが、
それ以上に私には懐いてくれています。

旦那は17歳年上で、有難いことに主婦業に専念させてくれています。
育児もよく手伝ってくれて、仕事から帰って来ると遊びから、子供のお風呂まで
なかなか寝ない日には寝かしつけも代わりにやってくれます。

大好きな人と結婚でき
最愛の我が子にも恵まれて、
私はとても幸せなはずなのに
息子が言うことを聞いてくれないと、怒鳴りつけて、本気で頭を叩いてしまいます。
具体的には、冷蔵庫から野菜を取り出して遊んでいる時や、調理中にコンロの火を勝手に止めるなど主に料理をしている時がほとんどです。
何度かは口で「危ないから、触らないでね」と注意しますが、
それでも言うことを聞かないと、一瞬で頭に血がのぼり、叩いてしまいます。
叩いた瞬間に、"悪いことをしてしまった"
"そこまで本気で怒るようなことではなかった"
と後悔して、息子に謝りますが、
また数分も経たずに同じことを繰り返してしまいます。
もちろんキッチンにベビーガードをつければ済む話ですが、
今は一人っ子なので、調理中ずっと一人で遊ぶのは寂しいだろうと思うと、躊躇ってしまいます。
毎日毎日、これを繰り返しているので
"どうして私は息子を殴ってしまうんだろう"
"母親失格だ"と自己嫌悪になっています。

やはりこんな母親は、失格でしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

可愛いのは子供ではなくあなた自身なのではないでしょうか

自分の怒り・エゴに向き合うほかありません。
子供に大人のルールを教えるのは4歳くらいになってからで十分でしょう。
あなたの様に大人のルールをものごころつかない子供に教えようと押さえつけられる子供は可哀想です。本当に可哀想です。
どうして、ものごころもつかない子供の粗相を責める必要がありましょうか。
うちにも子供がいますが「私の」ものではありません。
もちろんDNA上は親子関係です。
親子であっても私はこどもを「私の」子供にはしていません。
❝自分の❞子供ではないのです。
ですからその子は「あなたのもの」ではありません。
子供には尊厳があるからです。
だから、殴ったり叩いたりはしません。
子供はだれであっても、その命はその人のものなのです。あなたは❝我が子❞という事を大きくカン違いをしている。
その子を自分の子供だと思っている。
だからその子の尊厳をみとめない。尊重がない。
自分でお分かりでしょう。
そのままでは母親失格でしょう。 
暴力行為は気持ちいいですか?
スカッとするのですか。
わが子を殴って気持ちいいでしょうか。
「子供が可愛い。」
それは嘘です。坊さん相手に言葉を選んでいるように感じます。
我が子が好きでも「愛して」はいない。
大きくなって成人した子供の前で胸を張って言えますか?
感情まかせで怒って殴っておきながら、
「ママはあなたを愛している」と言って矛盾を感じませんか。
お子さんに代わって申し上げます。
「アンタは自分が可愛い」だけですよ。
それとも「いいえ。あなたは母親失格ではないですよ。大丈夫ですよ。」と嘘の慰みでも言ってもらいたいでしょうか。
それであなたが変われるのあればいくらでも嘘を申し上げましょう。
その行為は確実に母親失格です。ただしその時だけ。
母親が子供の頭を強く叩いて障害を抱えてしまったケースもあります。
頭って大事な脳が入っています。一番叩いてはいけない所ですよね。
あなたの怒りでその子の人生一生を左右しないであげてください。
出産前に戻って冷静に考えてみてください。
昨今のキラキラネームをつける親の心理や、わが子、わが子、わたしの子と子を自分の所有物と勘違いして、自分のペット感覚でで育てている人はまだ「親が始まっていない」のです。
「この子は私が生んだ子供だけど❝わたしの子❞ではない」と怒りを覚える度に念じてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

生きてるだけでOK

ベビーガードつけましょう(^^)

手を出すのはやっぱりいけないと思いますね。

カーッとなったとき、大きく息を吸って~吐いて~、「元気に生きてくれてるだけでありがたい」と、私は思ったりしてますよ。

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有り難し
おきもち

若輩者ですが、宜しくお願い致します。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ