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自己肯定感を高めるには

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私は、小さい頃から、周囲の人と人間関係を築いていくことに抵抗があり、煩わしいものというネガティブなイメージを抱いていました。

心を許せる仲の良い友人は数人いますが、
誰とでも広く浅く接するということができず、
その場限りではやりすごせても、
居心地の悪さや疲労感を感じて自己嫌悪に陥っていました。
その一方で、大勢で楽しそうにしている人が羨ましくもありました。

学生時代は、人見知りの性格だから仕方ないと自分を納得させていましたが、
社会人になり仕事の悩みから様々な本を読むようになりました。
そして、自己肯定感が低いことが、悩みの根本的な原因であると気づきました。

これまでの生き方を振り返ったとき、何かを純粋に楽しむことにどこかで罪悪感を感じていました。
頑張らなければ認めてもらえない、
強くならなければならない、という思い込みがありました。
どんな生き方が自分にとって幸せか、ということを考えたことがありませんでしたし、
また、自分が「この人なら信頼できる」と思った人でないと、
話してみよう、交流しようという気になれません。

おそらく、肩書きや学歴を重視する父親と良好な親子関係をつくれなかったことが原因だと思います。
高校まで実家にいましたが、息苦しい家庭だったため、
家を出て一人暮らしすること、自立することを目標にしてきました。

このため、家庭をもつことにネガティブなイメージを持っています。
恋愛にも奥手で、男性から恋愛対象に見られることも苦手です。

しかし、周囲も家庭を築き始めている中、
このままの自分の価値観では孤独な人生を送ることになるのでは、と危機感を感じるようになりました。
世の中や自分をポジティブに捉えるには、どうすればよいのでしょうか?
また、どのような心の状態であれば、「幸せ」と呼べるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まず自己肯定感という言葉を捨ててみる

え?と思われるかもしれませんが、一度そんな言葉忘れてしまいましょう。
「ただの人」になればよいのです。
平凡、平凡、大平凡。ド平凡、超ド級のド平凡、ポ平凡を生きるのです。
大平凡の自覚をすることこそ、自分が本当に等身大の自分に帰る最短、近道、ショートカットです。
何故なら「自己肯定感を高める」という誰かさんが敷いた「あってありそうな凸凹山道」を歩いて登っていこうとすることは、抽象的でぼんやりしすぎて、カタチの無い影を掴むようなものです。
私はそういうものは「もともと無かったものを、特殊に施設してその条件を満たすことによって救われるという幻」を設けることであると思っています。
自己肯定官、自尊心、自己受容感情、ここ十年くらいの間で心理学業界などでよく言われるようになった言葉ですが、こういう言葉にはマジック性があります。こういう言葉ができると、多くの人は「ああ、自分には自己肯定官が無い」「自分はそれに相当する」「自分を愛せるようになりたい」と、元々無かったものを特殊に欲しがるような回路が作動する場合があります。
似たようなたぐいの言葉に、
自信がない、自分を愛する、自尊感情、アイデンティティ…、
「貴女には〇〇がありませんね」と言われると多くの人が暗示にかかるのです。
変な結論と思われるかもしれませんが
「なくて結構!」と胸を張ってみましょう。
その瞬間に、そういう言葉からのシバラレが無くなります。
「ポジティブでなくて結構、自己肯定感が無くて結構、立派な肩書きなくて結構、大平凡で結構!」と布団の中で元気よく言ってみてください。
貴女は自分が作り出した幻の劣等感、呪縛から解き放たれ、今日からシラフの素の自分。大平凡の自分(仏性)を自覚することでしょう。

(´-ω-`)「自己肯定感?そんなものは人が作った言葉ぢゃ。そんなモンがあると心の中で肯定し始めた時から、より一層アンタはその言葉の虜になって、オマケに身動きすらできんようになったんじゃろうに。だったら最初から、そんな重たいものは持たなければエエ。」

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

「他人にどう思われているか」が基準になっていませんか

全て人の評価、「他人にどう思われているか」が基準になっていませんか。
まずはその物差しをつかうことをやめましょう。他人と比べてという物差しは、ご自分で作り上げているものなので、伸び縮み自由自在。いつまでたっても満足できません。
人の評価が全ての基準になっているので、叱られたり、注意されたりすると、自分を責めてしまうのです。
さらには自分でも自分を責める癖がついてしまっています。
もしかすると、ネガティブな言葉が口癖になっていませんか。「駄目だあ」「難しい」「全然〇〇」など・・・
もし口癖があるとしたら、意識的に言わないようにすることも大切ですよ。これも自分で作り上げた嘘ですからね。

初めて人と出会った時、新しい環境、そこまで仲の良くない仕事上の人とのお話って緊張しますよね。
しかし、緊張していても、それは良いとか悪いとか思わずに、そのまんまにして置いてください。
そして、人とお話する時も、ひとの評価を意識すると、「良く見せたい、こんな私ではだめだ」、とか余計な気が起きて、目の前にいつ人をそのまんま見ることができなくなります。今目の前に居る人に、好き嫌い、得意苦手など何にも付け足さずに見てみてください。案外、緊張しないで安心して話したりできるものです。

私も、人と話すことは得意な方ではないと思っていますので、いつもこんなことを心がけています。大丈夫ですよ、こわいものなんてありませんから。失敗もOKなんですから。

過去にお父様との関係で嫌なことがあったのかもしれません。しかし、過去に戻ることは絶対にありません。今この瞬間、新しい時間がスタートしているのです。過去のことは置いておいて「今」「目の前のこと」「目の前のモノ」を見つめてください。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

恋愛が有効、幸せは幻想(人生は苦)、でも長所探しを

自分を好きになってくれる人の存在があれば、変わるかもしれません。
友人でも彼氏でもよいですが、友人はすでにいらっしゃるようなので、
恋愛に積極的になってみるのもよいかも。

世の中の一切の現象(眼耳鼻舌身意で、キャッチする刺激)の本質は、苦しみなのです。
眼が見ている映像だって、眼に当たっている光エネルギーの刺激であり、微弱な光線の攻撃を眼細胞が受け続けているのです。
人生のどんな場面でも苦痛・不満足は必ずあります。
もしも、すべてに完全に満足したら、生きることから卒業して成仏できちゃいますからね。成仏してない私たちは不満だらけのはずです。
何が言いたいかというと、苦しみや不満のない人生なんてなく、それは「幻想の幸せ」だということ。
すべてにいったん絶望してから、世の中の良いとこ探し、自分の長所探しをしてみてください。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

感じる心、そして少しの勇気を持ってみて下さい。

マリーさん

自己肯定観のひくさや
家庭や世の中に対するネガティブなイメージは

あなた自身も感じられているように
お父様との関係が極めて大きいのかもしれませんね。

そうであるならば
自己肯定観が低いのを高くしたり
ネガティブをポジティブに変えたりするために
何かをするのではなく

その理由を知り、納得することではないかと思います。

お父様はマリーさんに
幼少期から肩書や学歴を得るために
徹底的に努力しろと要求したのではないでしょうか
肩書や学歴がなければ世の中渡っていけないと

これは裏を返せば
そのままのあなたでは駄目だというメッセージです。

だからマリーさんは自己肯定観が低いのだと思います。

私が思うに特に幼少期というのは
そのままの自分、ありのままの自分を

あなたは大切な存在なんだ
特別な存在なんだと、存在を丸ごと受け止めてもらわないと
不安に駆られてしまうのではないかと思います。

マリーさんの自己肯定観の低さは
本質的なものではなく
お父様のメッセージによって
植えつけられたものと知ることだと思います。

それと同時にマリーさんは父親を通して
男性像というものをつくってしまったのでは
ないでしょうか

そのため男性から恋愛対象に見られることも
苦手になってしまったのではないかと思います。

“世の中や自分をポジティブに捉えるには、どうすればよいのでしょうか?
また、どのような心の状態であれば、「幸せ」と呼べるのでしょうか?“

この問に対しては
こういう思考方法が出口を見えなくするのではないかと思います。

ポジティブに捉えるのではなく
ネガティブに捉えている理由を知る
今自分は幸せを感じていない。

また
“自分が「この人なら信頼できる」と思った人でないと、
話してみよう、交流しようという気になれません。“

とのことですが
直観は大事だと思いますが、
交流しないと人は分からないと思います。

人と関われば、傷つくこともあるでしょう。
ただそうじゃない出会い
この人に出会えてよかったと思える出会いが
必ず起きると思います。

感じる心、そして少しの勇気を持ってみて下さい。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ