hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

過剰に謝罪や後悔をしてしまいます

回答数回答 2
有り難し有り難し 43

見てくださってありがとうございます。
私は、ミスをしたり、自分が失礼な態度をとってしまったと感じたときなど、非常に強い罪悪感や不安感がおそってきて、過剰に謝ってしまったり、後悔をいつまでも引きずってしまいます。

もちろん反省や謝罪はとても大切なことですが、相手に、そんなに気にしなくてもいいよ、と言わせてしまい、私が悪いのに逆に気を使わせてしまいます。

他にも、相手が何も言っていないのに、相手の気持ちを勝手に想像して、勝手に罪悪感を感じ、その気持ちから逃れたいために、急に自分の言動を謝罪したり、暴走して、余計な行動をとってしまいます。
あくまで私の中の想像の気持ちで、相手が本当は何を思っているのかなんてわかりっこないのに、暴走しているときは、あたかもそれが本当の事のように感じられるのです。

口癖のように謝罪の言葉を使ってしまうので、私のすみませんはなんだかとても軽いように思えます。

いつも自信がなくて、人の目を気にしてびくびくしているのですが、もっと自信と余裕のある、周りに余計な気を使わせない人間になりたいです。

こんな私が変わるにはどのような心構えを持てばよいのでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

乗客の日本人が嬉しそうにすいませんでしたすいませんでした事件

2日前にある人からメールと電話で謝られました、アヤマラレ-丹下と申します。
私は朝四時に起きてメールを見たら夜の十時半くらいにメールが入っていました。
朝八時くらいにお詫びの電話がありました。
相手は申し訳ないと思っておられたようですが、私はその間何をしていたでしょうか。
寝ていたのです。ZZZ( ˘ω˘)スヤァ
その時に電話の方に申しあげたのですが、
「アナタは私ではないものを相手にされていたという事をお気づきでしょうか。」
「わたしはあなたが悪いなぁと思っておられた間、寝ていたのですよ。」
彼は寝ている私ではなく、彼自身の頭の中で存在する「私」の❝脳内こぴぺ❞したものを相手に苦しんでおられたのです。
アナタはどうでしょうか。
似たようなところはありませんか。
禅宗の教えには、実物ならざるものを真実と思ってはいけないヨという教えがあります。
たとえば、私のここでの毎回1000文字の(長ぇよ)回答は、単なる文字なのです。
この文字を読んで人は様々に思い込みをされます。
おそらく私と直接会ってくださった方は少ないと思います。
本当はものすごくふざけた真面目な頭のカタいやわらかな面白くてつまらない人間(どっちやねん)なのですが、文字では誤解されるもんでのぅ。
同じように、生身の人間を相手にするにしても、同じ現象があなたの中に起こります。
「すみませんでした!ゴメンナサイっ!(TдT)」
そこにないもの👻を見ていませんか?
子供の頃親から強烈に怒られたことで防衛反応で過剰に反応してしまうことがあるのかもしれません。
私が昔カラオケボックスでバイトしていた時イエローモンキーの「JAM」という歌がマジでこう聴こえたのです。
「嬉しそうに乗客の日本人が!すみませんでした!すみませんでした!すみませんでした!」
(-.-;)「…なんだ、この歌は?サラリーマンが謝っている歌だろうか。」
全く聞き間違えだったのですが、人間の思いこみとは「実際にそうではないものごと」を、
勝手に❝そうだ❞と思ったものを本物だと思って苦しむのではないでしょうか。
今から出会う人に対して、よく観察してみましょう。
①その人本人
  と
②脳内で瞬時にコピペされたその人の脳内イメージ
この違いを明確にしてください。
わかったら返信ください。
あなたはおそらく本人本物でないものを相手にしているのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

シマさま

非常に強い罪悪感や不安感がおそってきて、過剰に謝ってしまったり、
後悔をいつまでも引きずったり、人目を気にしてしまったり・・・
そうなってしまうのには、当然原因があると思います。
その原因はシマさんの心の中にある、一言でいえば否定的な
信念、思い込みだと思います。
例えば、あくまで例えばです、自分は人と対等ではない、
何かが欠けている、未熟だ、存在していていいのか・・
そのような否定的な思い、信念が、それに相応した状況を作り出し
ているということです。
そうした思いを意識していないと思いますが、こうした状況の
元になっている信念は何か?と心の中を遡っていき、
その思いを明確にされるといいと思います。
いくつかあったり、その人独自の微妙な信念、思い込みだと
思います。
そこに行きつくと「これだ」と自分でよくわかると思います。
具体的に、明確にできれば、それを修正するなり、手放すなり
できると思います。
カウンセラーの人に手伝ってもらうこともできるとおもいますし、
自分でも初めは難しいかもしれませんが、できると思います。
自分に向き合い、自分と対話するよい機会にもなると思います。
今のシマさんの状況は、シマさんに問題があるとか、悪いとか
ではなく、ただ単にある信念、思い込みをいつの間にか
持ってしまっていたということだけだと思います。
否定的な思い込みは、今の状況という具体的なものがあるから
特定できるものでもあります。
原因となっている「思い」さえ手放せれば、すごく楽になると
思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

地方の小さい町の小さいお寺の住職をしていました。

質問者からのお礼

丹下 覚元 様
回答していただいてありがとうございました。
実際に体験された出来事を読ませていただいて、私が罪悪感を抱いて悩んでいたのは
自分の中で作り上げたイメージのその人であって、実際のその人は全く気にしていなかった
パターンが想像以上にあったのかもしれないなと思いました。
頂いた宿題はまだ自分の中でできていないのでまだご回答できませんが、過去のことを思い出して
みると、ものすごく大きな音で電話を電話を切られたことがあり、その人をとても怖い人
だと思っていたのですが、実際にお会いしてみると、動作が少し乱暴なだけで、とても優しい
人だとわかったことがありました。
今後誰かとお会いしたら、勝手なイメージを作らないよう、よく観察することをしてみようと
思います。
ありがとうございました。

法演  様
回答していただきありがとうございました。
読ませていただいて、自分は確かに人よりもダメな人間だという思いが常にあると思いました。
たまに成功して少し自信を持てても、そのあと少し失敗するとやっぱり自分はできないやつ
なんだと落ち込むことがままあります。
自分に対する否定的な信念があるから、自分の行動が余計に悪いことをしていると感じる。
私が悪いわけではなく、思い込みをもってしまっただけという言葉に少し心が軽くなりました。
どうしてこのような思い込みを持つようになってしまったのかまだわかりませんが、手放せるようになりたいです。
ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ