周りの大切な人達より先に逝く
私は極度の寂しがりやなのか、心を開いた人に先立たれるのが怖くて仕方ありません。
なるべく家族や友人達に気付かれず、迷惑も最小限にしてこの世を去りたいのですが、どうしたら周りと徐々に距離を置けるのか分かりません。
一度祖父との別れを経験してから心が壊れてしまったのか、早く死にたい置いて行かないでという願望が日毎増しています。
皆が何があっても私を置いていかないという絶対的なものがあれば話は別ですが、残念ながらそれは無理です。
このいつか来るであろう別れの恐怖が私を押し潰して来ます。
何を言われようとこの決意は揺らぎません。
しかし、気にかかるのは大切な周りの人達。
私のせいで迷惑をかけてしまうのは目に見えています。
ひとりでひっそりと逝きたいのに、今の世の中はそれを許してはくれません。
少しでもその日に向けて準備しようと、
実家を出て家族とはあまり連絡を取らなくして来ましたが、最近連絡して来る事が増えました。
母はストレスで胃を壊しやすく、私のせいで身体を壊してほしくありませんし、父も定年してゆっくり幸せに長生きして欲しいです。
兄弟も私も誰も結婚しておらず孫もいないので、私が居なくなったと知ったら親は絶望してしまうかもしれません。
少しでもその傷を浅くしたいので、すぐに気付かれない様にひっそりと逝きたいんです。
家族が最近の私の様子を心配してくれてる感がすごく伝わって来るだけに、いづれ先にこの世を去ろうとしてる事がとても心苦しく押し潰されそうになります。
毎日の様に連絡を取っている友人にも気付かれたくないので距離を置き始めたいと思うのですが、ずっと毎日連絡を取って来た子なので急に連絡を減らすのは不自然だなと思っています。
身辺整理をきちんとしてから、どこか静かなところへ行こうと思っていますが、大切な人達への負担を考えるときちんと完璧に詰めてからじゃないと逝けません。
なにかお知恵を貸して頂けたら幸いです。
こんな話じゃ無理ですよね。
でもなにか少しでもあればお話を聞かせて頂きたいです。
以前にも同じような事を書かせて頂きました。
その際は温かいお言葉を掛けて頂き感激致しました。
しかし、やはり思い留まる事を勧めて来て下さるのでせっかく頂いたお気持ちに胸が痛みます。
決意は揺らぎません。
長文になりましたが、不愉快な思いをさせてしまう内容で申し訳ありません。
技術職 家族は、 祖母×2人、父、母、姉、兄、私 幼い頃から依存性が高い性格だと思います。 好きな物事に異様に執着し、極めたがります。 中学、高校生の頃に大好きなアーティストさんが他界し、その時の傷が今もなお私の心に深い傷となって癒えません。 その後も次々と大好きなアーティストさんが消えていき、挙句同居していたおじいちゃんや愛猫までもが逝ってしまい頭がおかしくなりました。 実家に居るとおじいちゃんや愛猫の幻聴や幻匂がして来ます。(現在は一人暮らし)
心を開いた人が私の前から消えてしまう事に異常な程に怯えています。ひとりにしないで欲しい。 また私を置いて逝ってしまった、そう思うと押し潰されてしまい早く死にたいという欲求がどんどん増殖していきます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
出遇い続ける
えーと、つまりご相談の主意としては、自死を止めて欲しいわけではなく、
「なるべく家族や友人達に気付かれず、迷惑も最小限にしてこの世を去」る方法
を知りたい
そしてそのためには
「周りと徐々に距離を置け」て、「すぐに気付かれない様にひっそりと逝」ける方法
をも知りたい
そしてそれらを実践するために知恵を貸してほしい
ということですね。わかりました。
そ ん な も ん あ る か い !!!
が私の答えです。
なお、自死を思いとどまるための条件である
「皆が何があっても私を置いていかないという絶対的なもの」
であれば何らかの宗教にあるかもしれません。もちろん仏教でも近いものは考えられるのではないでしょうか。
仏教の考え方では
「死んだらお終い」
ではありません。それは実体を認め、生きている間はそれが存在するが、死んだら消滅するので跡形もなく何も残らないという考えですが。
仏教的にはある意味で
「最初から何もない」
のですから無くなりようがありません。これを空(くう)といいます。縁起とも無我ともいいます。
実体があるのではなく数限りない条件がととのってそのものを成立させているということです。
ですから人は亡くなっても大切な故人に遇うことあできます。生きている時のように会おうとしては会えませんが図らずも「遇う」ことがあります。
それは
故人が大事にしていた事や物を私も大事にすることで故人の心に触れる・出遇うということ
故人の影響をいつまでも受け続けるという事
故人が故人という姿形にとらわれず、この世界・宇宙全体にはたらく大いなるいのちとなったと感ずること、その中で生きる私を感じること
故人との思い出や故人からの教えを通して真理(仏法)に出遇う事
など様々です。
先に逝かれた大切な方々をそれでお終いにしないでください。K様を置いていった冷たい存在にしないでください。
今周りにいる大切な方々をK様に恐怖をあたえるひどい存在にしないでください。
K様が生きる中で出遇ってください。出遇い続けてください。どこまでもあたたかな出遇いがあり続けるのが仏教です。
「ない」ことが「ある」のです。
故人は「ない」、私は「ある」ではないのです。
私も「ない」からこそいかなる形でも「ありうる」のです。
南無阿弥陀仏
死にたいは、生きたいの裏返し
あなたは、静かにそっと死ぬことを考えているようですが
それは無理です。
あなた自身が、文面に、「母はストレスで胃を壊しやすく、私のせいで身体を壊してほしくありませんし、父も定年してゆっくり幸せに長生きして欲しいです。」を綴っているからです。
それをあなたが見届けなければ、身体を壊してないか、長生きしたかわからないでしょう。!!
あなたは、極度の寂しがりやと書いてますが、
寂しさを演出するために、死にたいを持ち出している
寂しさの感情を他人に、もっとわかってもらいたいという目的達成のために
死にたいを述べているのにすぎません。
好きだったアーチストの死や、祖父の死、愛猫の死を
あなたの寂しいをもっと他人にわかってもらうために、
利用しているにすぎません。
あなたの本当は、本心は、本性は、生きたいはずです、生きたいし、生きれるのです。
なぜなら、これまで、生きてきたから!!です。
まだまだ、誰かに貢献して生きたいはずです。
それがまだ、理解できていないだけです。
あなたの細胞、身体、心臓、肝臓、腎臓、胃や腸、その他もろもろの内蔵、そして心持ちは、生きたいであふれているはずです。
つまり、あなたの存在そのものが、生きたいと輝いていて
誰かに、何かに、貢献しているのです。
視点を変えてください。寂しいと感じる状態から何が学べるのかと!
必ず変わります、生きてこそ、変わります。
あなたは生きる価値のある存在なのです。