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親の介護について

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将来親の介護について悩んめます。
実家の両親は私が栃木に嫁に行ったので、介護施設に入ると言ってくれています。金銭的にも自分でまかなえるそうです。

問題は義両親です。介護施設やデイサービスには絶対に行かない!近所の笑いものだ!と言ってます。

旦那の兄弟は六人ですが、非常に仲が悪く誰が面倒を見るのでしょう?嫁同士も最悪で何かあれば陥れようとしています。今は義両親に媚を売り自分たちさえ良ければと言う考えでうごいてます。
おそらく理屈にもならない理由をつけて、やらないでお寺の後を継ぐてあろう我々に金銭面でも押し付けてくるでしょう。

そして、なくなれば遺産相続をするわけですがかなり揉めることはめにみえています。今でさえ旦那が貸したお金すら帰ってきません。

しかも、実母は私達の結婚式の日に兄弟の一人から「こんな所に嫁に来る大馬鹿者、よっぽど物好きなんですね。うちは、もらうものは貰いますが、それ以外はやりませんからね」と言われました。

これは遺産と介護の事だと思います。

義両親の年齢を考えるとあと数年でどちらかが介護が必要となると思います。たとえ話合いを持とうとしても、話合いにすら来ないとか、皆で当番制にしても当日来ない事は目に見えてます。

恐らく私達に押し付けて、寺の事、介護、自分の子供の子育てに追われるでしょう。

本当に怖いです。
この義両親もくせ者で誰とも上手くできない性格です。私や皆をののしるのですから、誰も面倒は見たくないんです。お金を出せばくる兄弟もいるかもしれませんが、なかなか難しいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の中の獰猛な獅子を鎮める

南無さん。(^<^)今までの他の悩みにも全て共通していますが、家のこととはいえ人の事に首を突っ込み過ぎ、干渉しすぎだとぶっちゃけ思います。
全ての問題が共通しておられることにお気づきでしょうか?
「その人を問題にする自分の一心」です。
その恐怖心を拭い去るためにいい方法として「放っておける人」になってください。
介護に関しては、いざその時が来たら考え、行動する。今から妄想ふくらましても一厘の益も無しでしょう。
いちいち自分の事にしないでよいのです。外から来た嫁さんなのですから、高みの見物で良いのです。
他人の事は他人の事、寺の事は家の人たちが主体性を持って決めればよいのです。
前にも申し上げましたが、すこし主役意識が強すぎ、主人公過ぎると感じます。
「やってくれ」って言われて「それは嫌です。お断りいたします。」
これで問題解決でしょう。
今の時点で考え込み過ぎ、しょい込み過ぎ、危機感感じ過ぎです。
それはあなた自身が「安定した心を手にしようとしていない」からです。
義父や旦那さんの事で経済的にも恵まれていないことで不満も大きいと思います。
貴女は今、ただ、純粋によき母をやればよいのです。よき妻をやればいいのです。
そうすれば自然に良き人、良き心になります。良き心を養うことにだけ集中してみてください。毎回ご質問の中で他を憎む気持ちが感じられます。
その暴れる心をおさめるのが仏教であって、相手をやっつけるのが仏教ではないのですよ。
だから文殊さまも獅子の上に鎮座し、普賢様も像の上に静坐しておられる。
獅子、像とは暴れ狂う貴女の心。人間万人の有する自我、エゴ、我見の暴走。獰猛なる自己中心的な目線です。
その獰猛なる心をおさめ得ずして、あなたの幸せはあり得ません。
「南無さん」と仰るのならば、その名に学ぶべきです。
その暴れ狂う心をおさめたいと本当に発願することです。
「ああ、相手が憎い!ゆるせない!」という他人を敵にする思考を今日限りでもう卒業してください。    
そして「ああ、相手を問題にしてしまう、この心を何とかしたい!」とおさめるべき矛先を自分の心に向けてください。そしてその心を鎮めるために、仏法僧に帰命帰依「南無」するのが寺嫁のあなたの第一の用心ではないでしょうか?それがないのに相手の事ばかり問題にしておられるから苦しみがなくならないのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ずぶとく自分の損得で生きてください

檀家さんや、地域の皆さんのために奉仕していくのがお寺の役割であると言えます。それは微動だにさせてはいけないのでしょう。

しかし、「きょうだいは他人のはじまり」と思います。実のきょうだい同士だとそうともいえない面もありますが、お連れ合いのごきょうだいやその配偶者などは完全に他人で、もしかしたら敵(かたき)であるのかもしれません。そんな連中にまでいい顔をする必要はありません。あなたに宗教家としての責任があるのは檀家さんと地域の隣人、またはあなたに期待してお寺さんとして救いを求めている方々への宗教的ケアだけです。あなたの悩みのタネの連中なんて、やっつければよいのです。

ただ、義理のご両親となるとそうでもないところもありますね。さすがに義理であっても親なのですから。世間から「お寺の嫁のくせに」と言われるのも嫌ですし……。今すぐ大きな介護負担がかかってくるのではないようですから、現状は騙しだましやっていってください。

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個別相談可能
私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

質問者からのお礼

今の感じたど押し付けられる気がします。嫌な事は跡継ぎとその嫁にやらせればいい。になりそうです。

でも、起きてもない事を心配しても仕方がないですよね。

すでに旦那から介護らしない。と義両親に伝えてありますが、誰もやらないとなると結局我々にすがってくると思います。

それでも、お断りしますけどね。

今は老人ホームなどあるのですから利用すればいいんです。もし、将来世話になるなら、してもらえるように行動すればいいと思います。

子供が世話をして当然!その嫁が率先しでやるのが当然!なんて…、今までの態度では到底無理です。

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