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仏教では両親を

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お忙しい所恐れ入ります。

仏教では自分の両親を敬い大切にしなさい、と教えられております。

しかし、今の世は「気に入らない」とか「言う事を聞かない」といった理由で、教育や躾という大義名分の名の下に我が子を虐待し、場合によっては殺してしまう事もあります。

その様な幼少期を過ごした子供が両親を快く思わない事は、想像に難くないでしょう。
それでも子は、両親に感謝し敬い、大切にしなければいけないのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

未熟な親がしてくれたことに感謝する

ブラック・サレナさん

あなたの疑問はもっともだと思います。親も人間なのでいろいろな人がいます。とても尊敬できないような人もいます。

親が精神的に未成熟で、それにより深刻なトラウマを負った人に、両親を敬えとか感謝しろというのは、さらにその傷を深める場合があります。尊敬できない事情があるからです。まだその人の傷がうずいていたり、それによりいろいろな支障がある時期に感謝はできなくて当然です。

すこし客観的に両親をみれるようになったとき「感謝できる部分」を見つけて、そこに感謝することはできるのでないかと思います。たとえ、育児放棄や虐待されたとしても、その人がいま生きているということは、何らかのことをしていただいたはずです。生まれたての何もできない赤ちゃんを完全放棄したら生きてはいません。何かしてもらっています。他の親の半分ぐらいだったかもしれないけど、それならその半分には感謝します。

お弁当がいつも白いご飯だけだったとしても、ご飯を炊いてつめてもらったことに感謝します。その親の精一杯だったかもしれません。もし、生まれて捨てられて養護施設で育ったら、すくなくともお腹で10か月育ててもらったことに感謝します。中絶されなかったことに感謝します。

感謝するということは「理想的な親」を思い描いて感謝するのではありません。未熟でダメな最低な親でも、その未熟者がしてくれたことに対して感謝するのです。

毒親に育てられたことにより、その恨みから離れられず苦しんでいる人がたくさんいます。してもらえなかったことや受けた酷い仕打ちに着目している限り、その苦しみから解放されることはありません。わずかでも感謝の気持ちが生じたとき、そのぶん恨みは解毒されます。

親子になるというのは、それなりの因縁があってのことです。どういう理由かはわかりませんが、理由があって親子として出会っています。そして、虐待したり、虐待されたりも理由があります。もし、恨みだけを持ち続けたら、そのサイクルは終わることなく、また次の原因にになります。仏教的には輪廻も含めて教訓的に言う場合もあります。

いろいろな事情があったとしても、感謝の気持を持つことは、自分自身を救うことにもなります。感謝の気持ちを呼び起こすことは大切なこころの訓練です。日々感謝して生きていきたいですね。仙如

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仏教は出家の宗教

ん〜…親に従順であれというのは、実は仏教ではなく儒教(朱子学)なんですよね。仏教と儒教で習合してる部分もありますからややこしいんですけどね。

とは言え、純粋な仏教でも親は大切にしましょうという教えはあります。でも、親と子であっても仏と仏なんですよね。もっと言えば仏教では、自分が自分を大切にするように、誰に対しても真心をもって接しましょうというのが理想です。誰に対しても仏と仏として接したい…それが仏教の理想です。

仏教は出家の宗教ですから、必ずしも親に従順であれと説くわけではありません。仮に親子で出家したとして、子が先に、親が後から出家したとしたら、仏教教団の序列は出家順ですから子が上になります。面白でしょう?
道元禅師なんてお弟子さんに「親が危篤なので実家に帰らせて下さい」って言われて「出家した以上は、立派に修行して立派なお坊さんになるのがお坊さんの親孝行だ!世俗の親孝行は忘れろ!!」と言って帰らせませんでした。そんな生き方も有るのですよ。
今でも禅の道場では最初の3カ月は親の葬儀でも外出禁止です。だからその期間中にお父さんが亡くなったけど、受付のお坊さんが気を使って3カ月経つまで本人に知らせなかったという事があります。その知らされなかったお坊さん、受付の人に感謝してました。

逆に儒教(特に朱子学)は序列を大切にすることで『強い国を作る』ことを目指します。国王を頂点にしたピラミッドの中で、父親が直属の上司なわけです。要するに『個々人の救済ではなく、組織論として』親を敬いなさいという話が元々なんですよ。ここ大切です。

虐待が現在の問題であれば、親とは距離を置いた方が良いでしょう。それこそ駆け込み寺ということもあり得ます。
虐待が過去の話であれば、もう過去のこととして執着するのは止めましょう。引きずることで今も傷付くのは自分自身なんです。そして、もし、それでも親に感謝できたら、その感謝の心によって自分で自分を救うことが出来たのです。

まぁでも、順当にいっていれば仏としての大きな流れに至るため、親への感謝が最も身近…という側面もあるわけですから、そういう訳にいかなかったら順番は逆でも良いと私は思います。仏という在り方に至れば親も子もありません。だから自然と親に感謝することも出来るんです。日本語としては変になっちゃいましたね(笑)でもそういうモンなんです。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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結局は自分が決めること

ブラック・サレナさんは、親から虐待を受けた経験があるのでしょうか?
しつけと称して暴力で言うことを聞かせようとしたり、逆に一切の育児を放棄してしまうことも虐待に当たりますよね。

そういった経験をなさった方に「親を敬え」というのは、確かに酷なことですよね。
けれど、その親を許すか許さないかは、結局は自分が決めることだと思います。

仏教では「縁」のつながりを大切にします。
どんな命も、それ単体で何も無い所からポロッと生まれたわけではないし、単体で生きてゆくことも出来ません。

あなたにも必ず父と母がいて、それぞれがご縁をいただいて結びついて初めて、あなたという命が生まれました。
それだけではありません、あなたがここまで育つ間にも、あなたはたくさんの命を取り込み、またはお世話になって生きてきました。
あなたの命は、今ここに居る時点で数え切れないほどのご縁によって生かされてきた、ご縁のたまものなのです。
もちろん、それはあなたに限らずすべての命がみんなそう。

だから、親の暴力によってどれだけ傷ついたかはさておき、私という命をこの世界に生み出して下さったという「ご縁」には、感謝をしないといけませんね。

目の前の「やった、やられた」ばかりを気にしていては、心の安心を得ることは出来ないでしょう。
いのちのつながり、ご縁の不思議、そういった大きな流れに想いをはせ、他人の行為を許すことが出来た時、初めて安心は得られると、仏教では説きます。

もちろん、深く傷ついた方にいきなりそんなことを言っても、なかなか受け入れられないと思います。
だからこそ全国のお寺さん、僧侶、あるいはhasunohaのように、悩んでいる人に寄り添う存在が必要なのですが。

自分を傷つけた相手を許すか許さないか、最後に決めるのは自分自身。
けれど、佛の智慧(おしえ)はいつも傍に在ります。
間違えたら、またやりなおせばいい。
勇気をもって、今この瞬間をしっかり生きよう。

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有り難し
おきもち

様々なつらい別れや痛みを、私も経験しながら今日を生きています。 あなたの...
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質問者からのお礼

お坊さんの皆様にはお忙しい中、私の悩みに助言をくださった事、心より感謝申し上げます。
確かに、たとえ心身共に未熟な親の元に生まれたとしても前世の業にして「親がいるから私がいる」という事は紛れもない事実ですし、尊敬に値する事ですね。
この場での経験を活かし、人生をより良いものに出来る様、精進してまいります。
この度は有難うございました。

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