お経について
連日の投稿を失礼いたします。
「写経」という言葉がありますね。
平安時代くらいの物語を見ると、何かある度に写経。
これはどうやら、トラブルや揺らぎがあった際に心を落ち着かせる手段です。
ただ書き写すだけの単純な行為は冷静さをもたらしますが、
当時絶対的な力を持っていた仏教の……経典で良いのでしょうか?
それを書き写すことにより、「お釈迦様のおかげ」となっているような気がします。
何故なら、お経は唱えるものです。
サンスクリット文字に、中国で「音に近い読みをする漢字」を当て、
それが日本に来たからです。
純粋に、釈迦の教えではなく、かつての中国文化が混じっています。
なので、口に出さず、ただ書き写すのは、ちょっと違う気がします。
# あえて「釈迦」と書いたのは、亡くなっているからです。
# 人々が「天智天皇陛下」と呼ばないのと同じです。
# 軽んじているわけでは、決してありません。
仏教に興味はありますが、わざわざサンスクリット語を勉強するほどか、と言われたら、否です。
なので、釈迦の教えを説く立場の皆様にお伺いしたいと思った次第です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
実際、写経は導入の性格が強いものではありますが…
>何故なら、お経は唱えるものです。
道元禅師は「念経、看経、誦経、書経、受経、持経あり、ともに仏祖の修証なり。」とおっしゃっています。このうち書経が今でいう写経に当たるでしょう。
仏教の修行は身・口・意の3つで行います。口で唱えれば口業の修行、手で書けば身業の修行、それだけのことです。どちらが本物かという問題ではありません。
>サンスクリット文字に、中国で「音に近い読みをする漢字」を当て、
これ、陀羅尼(だらに)です。お経には陀羅尼、漢文、和文の三種があります。法華経が音写に見えましたか?
もっと言えば陀羅尼もサンスクリット語に限りません。シルクロード圏の文字だっていろいろありますし。大乗はサンスクリット語!上座部はパーリ語!なんて解説は時代遅れになりつつあります。
>これはどうやら、トラブルや揺らぎがあった際に心を落ち着かせる手段です。
人によります。もちろん心を落ち着かせるためにやった人もいるでしょう。あるいはお経の神通力によって救ってもらおう!という俗っぽい人もいたでしょう。公家といえど仏教的には一般人なのですからそりゃそうです。信心の形は十人十色だと私は思いますよ。
また、一言で写経と言っても、道元禅の威儀即仏法の発想で写経するのと、密教の観法の発想で写経するのと、念仏の発想で写経するのではおのずと異なった写経になってきます。写経もまた空なんですよ。それを無駄にするか修行するかは自分次第です。この辺は修行して体感しましょう。奥が深いですよ。
※最近は学校の教科書が釈迦と書いているのであまり文句言えないのですが、釈迦というのは部族の名前です。シャーキャムニ(釈迦牟尼)で釈迦族の尊い人。これでようやく特定の人を指す固有名詞です。あるいは当時のインド圏の習慣でシャーキャプッタ(釈迦族の子。サーリプッタ=舎利子と同じパターン)とも呼ばれていたそうです。
だから敬意の問題ではなく、単純に語法としてお釈迦さまを釈迦と呼ぶのは間違いです。
シャーキャムニ→音写して釈迦牟尼→意訳して釈尊→口語化してお釈迦さま。文章の性格上、尊称をつけたくない場合は釈尊を使うのが良いと私は習いました。
どうしても様づけしたくない人に俗名でゴータマと書く人もいますが、文脈として出家前のお釈迦さまを指す場合を除き、ひねくれているだけですからオススメしません。読み手に不親切ですし
「お礼」を読んで追記します
般若心経の場合、ギャーテーギャーテー~ソワカ の部分だけ音写、それ以外は翻訳となっています。
(追記はここまで)
こんばんは
あなたは仏教を学ばれていた事があるので、もうご存知だとは思いますが、仏教は御利益がもらえる教えではなく、「気づく」教えです。写経をして何か落ち着いた気分になって「お釈迦さまのおかげ」となるのは本来からは外れます。
「写経」は印刷技術がなかった時代に、原本を書き写すために行われました。仏教を広めるために写経は必要だったのです。ですから現代では本来の意味での写経は、印刷屋さんがしてくれている事になります。
おっしゃる通り、ただ書き写すのは違うと思います。また、意味を理解せずただ唱えるのも違うと思います。
(音写のお経もありますが、翻訳されたお経もあります)
お経は声に出しても出さなくても、意味を理解しながら読むのが良いと思います。
お経は文字ではないというのはその通りです
考えてみると写経にもいろいろありますね。
多くの人に布教する為に写す写経。
精神を集中する為の写経。
書道など芸術の為の写経。
お経を確かに読みましたよという証。
よそのお寺で拝見したお経を忘れないように、自坊に戻って思い出しながら書いた、自分の勉強の為の写経。
お経の内容による儀式としての写経。
などなど。
いろいろな写経があってもいいと思います。
ただ仏教としては、例えば、日蓮宗の日蓮様はお経の読み方について、体読あるいは身読しなさいと言われました。つまり、口に出すよりも、書くよりも、目で読むよりも、実践する事が大切ということです。
お釈迦様も同じようなことを言われています。
浄土宗の法然様がただひたすら念仏を唱えるのは、念仏を唱えることが浄土三部経の体読つまり実践だからです。
曹洞宗の道元様も、「法華経をどれほど読んでも、自己を明らかに学ぼうとしなかったら、かえって法華経の敵となる。」と言われました。
ですから、私達もよくよくその事を忘れずにお経と向き合いたいものですね。
なお、中国から伝わった漢文のお経はほとんど意訳されています。明治時代以降からサンスクリット語やパーリ語と漢文との内容比較をする先生が多くでてきて本も多く出版しています。私の感想としては、とても上手く漢文に意訳されていたんだな、と感心する事の方が多いです。多少は間違いや中国文化の影響あるいは訳者の思惑と思われる点もありますが。お経によっては、原文より味わい深い言葉があったりもするのですよ。
質問者からのお礼
【大慈様】
私の呼んだ平安物語(この場合は『とりかへばや』ですが)は
作者不明となっています。
おそらく、没落貴族か知のある農民が書いたと思います。
なぜなら、帝があまりにもアレで、嫉妬心に似たものを感じるからです。
とすれば、「写経=心を落ち着かせる手段」としての側面しか捉えなかった、
という解釈で納得できます。ありがとうございます。
「お釈迦様」の呼び方は、私は時代時代で使い分けています。
例えば、昨日の書き込み。
出家前、直後は「王子」と書いたつもりです。
天皇と同じく、神格化された現在は「釈迦」と書いています。
ありがとうございます。
【光禪様】
書き写すことに集中する、ということは、心を落ち着かせる行為そのもので、
また、「気付いたら覚えちゃった」となれば、当然平穏がおとずれます。
確かに、「お釈迦様のおかげ」と捉えるのは一足飛びですね。
しかも、4日間もの間、閉じこもって飲まず食わずで書き写した、となれば
相当集中できたでしょう。
音写のお経というのは、初見です。
大学時代、確かに松下講堂で般若心経を全学生、職員で唱えましたが、
「それ、音写」と言われれば、そんなような気がします。
翻訳されたお経、すごく興味があります。
私は漢字を既に忘れているので、印象深い部分しか覚えていません。
「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーぼーじーそーわーかー」
の一説(?)、どんな意味があるのか、ちょっと気になります。
ありがとうございます。
【聖章様】
大学時代、高野山で思ったことです。
「何だか、音程のない音楽のようだ」と。
だから、
例えば般若心経では、出だしの「観自在菩薩」しか漢字で書けません。
たった今考えると「すべてを見渡せる菩薩様は」という出だしかな、と、
まるで物語のように感じます。
だから、
「ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーぼーじーそーわーかー」 という、
末尾の部分がひらがなで思い出せます。
「字」ではなく「音」で薄ぼんやりと覚えています。
これは、知らず知らずのうちに、わずかながら体読していた、ということでしょうか。
おこがましいですね。
漢文における意訳とサンスクリット文字の原文訳、両方読んでみたくなりました。
きっと、今よりもっと興味を惹かれると思います。
何でも調べられるネット社会、うまく活用し、
「この人はこんな捉え方をしているのか」というのを体験したいと思います。
ありがとうございます。