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好きな言葉について

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好きな言葉(名言)はなんですか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それでも私はリンゴの木を植える

それでも私はリンゴの木を植える

これは、柳田邦男さんの『がん、五十人の勇気』のなかで、植樹されたリンゴの木に花が咲くまでの余命がない人が、おっしゃった言葉だったと記憶します。

私の宗旨、浄土真宗は阿弥陀仏の本願を中心に展開する教えです。自分の有限な「生命(せいめい)」が尽きても、自分の願い、いいかえると存在の 意義が次の世代に引き継がれ、伝承されていくなら、その人の「いのち」は無限に存続することになります。願いとは私個人の欲を満たそうとするものではないのだと、上のお言葉は教えてくれているように思います。

さて、上記のお言葉は、ルターの言葉に基づいているようなので、これについて書いておられるサイトなども参照してください。
http://ankei.jp/yuji/?n=943

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私はお坊さんといっても、ひと様に何か答えらしいものを提示できるような立派な者ではありません。むしろその逆で、しょっちゅう周りの方々にお尋ねして、教えてもらって生きています。質問について考え、答えようと悩むことで私自身が学び、僧侶として少しでも成長していけたら、と思っています。 youtube法話を始めました。私の名前ですぐ見つけていただきます。
本堂までWi-Fiの電波が届かないので、お内仏(家のお仏壇)のお部屋でお話します。

心に愛がなければ、スーパーヒーローじゃないのさ。

「キン肉マン」の主題歌の歌詞です。
主人公のキン肉マンは、物語の最初の頃はとても弱く、
「ダメ超人」とも呼ばれていました。
が、他の超人たちとの戦いの中で成長し、
「火事場のクソ力」を身につけて、
一流超人たちが集まる「超人オリンピック」で優勝します。

キン肉マンは心優しい男です。
ダメ超人という立場から成長してきたからこそ、
立場の弱い者への愛にあふれています。
そんなキン肉マンには、次第に仲間が増えていきます。

一度、キン肉マンたち「正義超人」に代わり、
自らのことを完璧だ、と称する「完璧超人(パーフェクトちょうじん)」という
やつらが、超人界を取り仕切ろうとしたことがありました。
完璧超人たちは確かに強く、一時は民衆もそれになびきかけるのですが、
最終的には、「どんなにドジでマヌケでも、俺たちはキン肉マンに地球を守ってもらいたいんだ!」
という魂の叫びが生まれました。

どれほど強さを誇る超人でも、心に愛がなければ、
スーパーヒーローにはなれないのです。

仏教の言葉である「慈悲」や「布施」。そして「精進」など。
『キン肉マン』から学ぶことができる部分は、非常に大きいと思っています。

ちなみに、この歌を作詞した「森雪之丞」さんという作詞家の作品で、
「ドラゴンボールZ」の「WE GOTTA POWER」という主題歌の中の、
「夢中になれるモノが いつか君を すげぇ奴にするんだ」
という部分にも心が震えます。

あまり仏教関係なくて、スミマセン(笑)

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浄土宗の佐山と申します。 浄土宗教師の資格を得たあと、10年間のサラリーマン生活ののちに、この羅漢寺にお世話になり、2014年に住職として晋山いたしました。 現在は、「ここより」というサイトの編集長を務めています。 まだまだ悩める道の途中ですが、少しでも皆さまの力となれるよう、がんばります。

ニーバーの祈り&仮名序(関連なし)

こんにちは。私からは、「ニーバーの祈り」をご紹介します。
この方は、アメリカの神学者つまりキリスト教の方です。けれど、とても好きなんです。

Wikipediaから引用します。

神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

 勇気と冷静さ、そして知恵。何て格好いい!とか思ってしまいます。
 恐らく、この3つのうちで一番難しいのは、「知恵」だと思います。文章の構成上もそうですよね、最後に来るのは一番の盛り上がり、決めぜりふですから。
 この「知恵」というものを身につけるには、実は経験がものをいうと思います。つまり、年を重ねた方がいい、ということです。親に育ててもらっている間は、その親たちの価値観に沿うように振る舞うしかありませんから、経験の幅は狭いです。ただし学校でクラブなどに入ると、その目的とする所やルールに従わなくてはなりません。また、学校を終えて社会に出ると、親以外の人ーつまり、仕事とかお金絡みの価値観にふれることになります。そして恋愛とか…。
 いずれにせよ、言葉は時として自分を引っ張ったり、助けたりしてくれます。また時には自分を縛ったり苦しめたりもします。しかし、あなたのように、いろんな言葉を集め、ストックしておく事はとても良いと思います。言葉自体は変わりませんが、貴方の変化によって、「輝きが見える」ことがあるからです。
 そのための、もう一つの言葉。日本の「古今和歌集」仮名序です。「好きな言葉」というほど短くはありませんが、言葉の本質に迫ることが、ここにかかれていると思います。ぜひ見てみてください。思いの外理解しやすいものですよ。

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

諸行無常 諸法無我 涅槃寂静

文字は、そう記されているだけ。解釈によって毒にも薬にもなるものです。
たとえば、一般的な解釈では三宝印は次のように解釈されていると思います。
〇諸行無常…あらゆるものは移り変わっていく。
例…桜や紅葉が散っていくさまに、衰えや滅び、いつかは枯れてゆくというネガティブな意味を添えた悲観的な無常の解釈です。
〇諸法無我…あらゆる存在には自性が無い、縁によって互いに関連性を持って存在している、という現象論。ものには中心が無いという、科学者的な視点。
〇涅槃寂静 … 悟りの心境こそは最も安らかである。煩悩の炎を鎮めた最高の心境。

正直、仏教に疑問を感じませんか?
こんな解説をされたところで一体だれが救われるというのでしょうか?

無常だから、無我だから、何だというのでしょうね。
こういう論の仏教には全く魅力を感じませんでした。
釈迦はそんな小学生でも分かることを伝えたのか?イヤ。
ある時、本当に悟りを得ているお坊さんにお会いしまして、その老師が、
諸行無常 … この心身はいつでも前の事を離れていて救われている。      
諸法無我 … 全てのものには、人間の自我の見解が元々なにもついていない姿であるから、それを悟れば、モノや相手によって「わたくし=自我・有我」されることが無く自由になれる。
涅槃寂静 … 人間的なはからいがない寂静な眺めこそ人間の思考フィルターを介していない、まっさらな、物事をそのものとして眺めた安楽無為なる世界である。
と、いった形で説かれておられました。
つまり三宝印は救いの言葉なのです。
世の多くの仏教学者が、三宝印を単なる現象論にして死なせてしまっていたのを、その老師(井上貫道老師)だけは、見事なまでに活きた三宝印として説かれていました。まさにに現代のブッダといえます。

たとえ般若心経でも解釈する人次第で台無しです。
何故ならばその解釈をする人がブッダ、覚者=悟った人ではなければ解説書、推測本なのです。
たとえ池上彰さんがいくら解説がお上手でも、悟ってはいないので悟りを伝えることはできません。悟った人が悟りの目線から解釈したものでないと、同じ言葉のお経でも、文字でも、三宝印も人を救える教材として用いる事が出来ないのです。
よって、好きな言葉というより、仏教語を通して本当に人を悟らせることができる人間の方が好きです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔

「仮にこの身が多くの苦や毒に沈もうとも、私は精進して修行し忍びて悔やむことはありません」という意味です。
この言葉は阿弥陀如来という仏様が修行中に誓われた言葉として、仏説無量寿経というお経にでてきます。

阿弥陀如来という仏様は全てのいのちを救う為に果てし無く長い時間修行をなされた仏様です。
私の為に御苦労くださった仏様がいるんだと聞くと嬉しいです。
私にはこんな修行は到底できることではありませんが、そんな仏様にお任せして生きていく人生はとても充実したものです。

ちなみにこの言葉は俳優の高倉健さんの座右の銘でもあります。
※少し意味が違って理解されていますが…

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始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
初めて聞いた言葉だけど、とってもいい言葉です!
聞いてよかったです。

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