人の死に慣れるということ
医療福祉の仕事をしています
仕事柄お看取りの場も幾度となく経験してきました。
また お看取りの場には立ち会わなくても「また明日」が通用しない方々と多数接してきました。
通夜葬儀に参列する機会も同年代異職種の友人達よりは遥かに多い現状です。
いつからとも無く、どれ程深く関わっていた方であっても「死」という状態に接した時悲しい、寂しいという感情を失ったような気がします。
同僚等は通夜葬儀で涙を流して遺族の方と話をしています。
私にはそれが全く出来ないのです。
仕事で関わった方に対してだけなのかとも思っていましたが、親族のその場でも全く悲しい寂しいという感覚が沸かなくなっていた自分がいました。
居なくなること、いなくなったことに対して虚無感喪失感はそれとなく覚えるのですが、何故だか感情が何一つ湧いてこないのです。
感情が無くなったのか、それとも「死」というものに慣れすぎたのか。
通夜葬儀の場に行くたび、泣くことの出来ない自分に嫌気がさします。
こんな私でも仏前に手を合わせる資格はあるのでしょうか
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「慣れ」の内容を問う
お仕事お疲れ様でございます。大変深い問いだなあとお聞かせいただきました。
本題の前に、仏前に手を合わせるのに資格など要りません。どんなお気持ちのまま手を合わせていただいてもけっこうですし、手を合わせたから「こういう感情になるべき」というものがあるわけでもございません。
ただ今ここにこうしてある私が手を合わせているということが有難いのです。そのままの私がそのままで仏と出会い、合わさっているのが合掌です。
さて、感情は起こるものです。悲しみもそうです。感情が自分でコントロールするものであるならば、悲しむべきところで悲しみの感情を起さないのはよろしくないのでしょうが、自分ではどうしようもならないものでありますので、死に際しても悲しまなければならないということはありません。
おっしゃる通り人間は慣れる動物です。死すらにも慣れる動物です。しかしその「慣れ」の内容を問うことができるのが人間ではないでしょうか。
つまり、「死とは何たるか」を本当に理解して慣れているのか、「死ぬって大体こういうことでしょ」とわかったことにして思考停止して慣れているのか、というところではないでしょうか。
お看取りの現場経験を通して、誰のそばにも常に死というものが隣り合わせていることは前者的に理解されているのではないでしょうか。
そこで、ではその「死とは何たるか」がいよいよ問題になってきます。私の死も問題になって参ります。そこのところを後者的に雑に扱ってしまいわないようにしたい…そのように私自身も感じています。
人情として死はやはり悲しいものでしょう。この世で肉身をもって会えなくなるということは生への執着を持った我々としては嘆き悲しむところです。それでも私たちはそれにすら慣れ、わかったことにしてしまいます。
そんな「悲しむべきことを悲しめないという悲しみ」をもつ私たちを哀れみ悲しむのが如来(仏様)の大悲(だいひ)です。
それは死を悲しみなさいという教えではなく、なんでもわかったことにしてしまい、それにより迷いを深めていく私たちの無明性(真実に暗いこと)をこそ私たちは恥じ、悲しまなければなりません。
そこに気づかせてくれるのが仏法であり、仏法がはたらきやすい場が「死」なのではないでしょうか。
これからも歩みを止めず、共に仏法に私を尋ねて参りましょう。
個人差があるだけ。
感情の起こりやすさには個人差があります。
あまり気にする必要はないと思います。
ただ、以前は感動できていたことなのに感動できないとか、以前は楽しかったことが楽しめなくなったとか、
以前と比べて急に変化があった場合には、うつなどの可能性があるので注意は必要だと思います。
うつまでいかなくても、かなり疲れている場合もあるでしょう。