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辞めるの見抜かれてる?

回答数回答 3
有り難し有り難し 7

女性上司に同僚の事を
相談してから。。
声かけてくるようになりました

こないだより元気ないねとか

火曜日は開店前にパンの品出ししてたら
少し離れてた所で見てました

何でしょうか?

辞めるの見抜かれてるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

部下を気にかけるのが上司の仕事だから

上司の方が発揮するべきリーダーシップとは、
仕事の業績アップにつながることと、
チームのメンバーの心をまとめることがあります。
あなたのことを気にかけるのが上司本来の仕事です。
上司の行動を、特に不思議に思う必要はありません。
しかし、あなたの様子が違うのを、みぬいてくれてる可能性はありますね。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

今が勝負所と思いますが

それは良かったですね。上司としては、やはり従業員が気持ちよく安心して仕事をするに如くことはない(それが一番いい)でしょうから、様子を見てくれるようになったのは、まずは有難いことです。
そして!今がチャンスです。あちらから視線のアプローチがあったのですから、いま此方がどう返すかは、影響が大きいです。「気にかけているけれど、それに気づいてないみたいね」なのか、「見ているのに気づいたのね、張り切ってるわ」とか、「彼の態度は確かに問題ね」か、「実は彼女(あなた)の方が駄目なんじゃない?」とか、兎に角評価の分かれ目です。
上司に守って欲しいならば、「守るに値する子」と思ってもらわねばなりません。しかし、「やめようとしているのを見抜いているのかな?」と勘ぐってしまうようでは、恐らく味方になってはくれません。上司は必ず、「残る人」しか守りません。あなたが辞めて彼が残るのなら、彼を守るのは当然です、親子じゃないんだから。「私は辞める。だけど、彼から守って欲しい」は、通用しないのです。
長く勤めている人は、「やめようと決心した人」を自然と見破れます。仕事を円滑に回すためには、その力が必要なのです。
ですので、辞めることを決心し、かつ上司に感謝しているなら、なるべく早めにそのことを告げ、後釜を見つける時間をつくり、業務が停滞しないように去ることが肝心です。幾分かでも自分を食べさせてくれた、その職場への恩返しです。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

物事に意味を添えない

ショコラさんのお悩みの特徴の一つに、直接お話して真意を確認されていないのに、きっとこうなのではないか、という所が見受けられます。
駅のホームで、ある男性が、じーっとこちらをじっと見ていました。
「何だろう?何でこっちをずっと見ているのだろう?」
さて、それは何故でしょう?
A「あなたの事を嫌いだった。睨んでいた。」
B「あなたに好意を寄せていた。」
C「ただ、ボーっと考え事をしていた」
D「あなたの側に虫が飛んでいて、それを眺めていただけなのに、自分をみられていると勘違いした。」

答えは、E。
これらのうちのどれでもなく、
「あなたの後ろにある広告を見ていた」のでした。

ですが、ここでショコラさんが学ぶべき本当の回答は、
理由がどうであれ、本当の理由はその人しか知らない。
だから、自分の側から相手の言動にいちいち「こうではないか」「ああではないだろうか」と意味を添えないで眺めることが大切なのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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