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実年齢より若く見える

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有り難し有り難し 51

私は、結婚前からお寺巡りを趣味にし、法話会や特別拝観などを楽しみにしている年齢の割に合わない趣味をしていました。

京都、奈良は年一回、普段でも休みの日は鎌倉等に出かけていました。

私は、見た目を若く見られる傾向がいまでもあるか、年齢のわりに幼い所を見過ごされるのかはわかりませんが、お寺に行って拝観料、拝山料を収める時や写経して納経帳をお願いする時に(拝観時間や常識のある時間にに行ってます)お坊さんやお寺の人に私からすれば面倒くさそうな顔をされたり、あんたに何がわかるの?的な顔をされたりされた事がたたあります。

仏教に興味があり、座禅会に行ってたお寺でまだまだわからない事もありあってお坊さんにもっと知りたいのでオススメの書籍はありますか?と相談したら、煙たがられ座禅会を辞めた事もあります。

写経して行っても、あんたが本当に書いたの?と疑われたり、写経会で一番に書き上げたらビックリした表情されたりと、時々不愉快になる事がありました。

お寺は誰が行ってもいいんですよね?
得に忙しい時期に行ったわけでも、法要等のある日に行ったわけでもありません。

なのに煙たがられました。若いから行ったら行けないんですか?年寄りなら歳相応でいいのでしょうか?

受け入れてくれる所には何度も足を運び、法話会にも毎月行ってました。

そりゃあ、来る人の中では若いので多額のお布施はできませんが、見た目で判断されても嫌です。(ハデハデしい今どきファションでお参りに行った事もありません。) 

カバンから数珠やお線香を出してお参りしている時でも、檀家さんでもないから?か嫌な顔されたり、イヤイヤ納経帳を書いているように見られます。

ハッキリ言って一度くらいそのような態度をとった人に理由を聞いてみれば良かったと本当に思います。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私は、若い方がお参りされたらとても嬉しいです。

仏教ほど若い頃からたしなむべきものはありません。
どうぞ安心してお参りください。

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

問い、に答えるなら

今晩は、お久しぶりです。お元気でしたか?

「お寺は、誰が行ってもいいんですよね?」 「はい、結構です」。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

相手は本当にそういっていたかどうか

今までのご相談の傾向から南無さんは、物事に対して強く「主観」を交える傾向が強いように感じます。
それはあくまで「私’(南無さん)が感じた」事なのでしょう?
本人に確認されましたでしょうか?
自分の「主観」を交えて、「主観」ばかりを相手にしていませんか?
「仏」や「仏教」を信じているのではなく「自分の解釈」を信じていませんか?
南無さんだけに、本当に「南無」するということは、そういう私見、主観、私的な見解を離れる事でしょう。(^<^)
仏教はどんな宗派でも共通しているのは「わがまま 自分 エゴ 自分の個人的なものの見方」を離れる事ではないでしょうか。(^<^) 

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

営業スマイルなのです

ほとんどの僧侶は、南無さんのような方を煙たくは思いませんし、年齢や檀家で有る無し等で態度を変えることはないのですが、たまたま、あからさまに不愉快な態度をとる者がいたのでしょう。せっかくの楽しいお参りで、そのような不快な思いをされたこと、大変申し訳なく思います。同じ僧侶として陳謝いたします。

ちなみに、お寺はお線香などの煙が常にあるので、坊さんは基本的に煙たい顔をしているのです。そして、我々にとって、ファーストフードの営業スマイルにあたるものが、哲学的苦悶の表情(音楽室にあったベートーベンの肖像画参照)なのです。今後は、「ああ、この人も、それなりにがんばって眉間にしわを寄せていらっしゃるのね」程度に思っていただければ。

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おきもち

個別相談可能
住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、お祭りなどのイベントに出演中です。 ◆大道芸人プリンコちゃんホームページ http://princo.fc2web.com/ 真言宗豊山派総合研究院 布教研究所常勤研究員 常任布教師 仏教伝道教材の「なむなむ」代表 流山市青少年環境浄化事業推進委員会 環境部会長 流山市青少年指導センター補導員 連絡協議会副会長 保護司(柏地区流山支部) 柏マジッククラブ会員 日本ジャグリング協会会員 流山ジャグリングクラブ顧問 日本ツイストバルーン協会会員 ◆PRINCOちゃんねる(法話動画など) https://www.youtube.com/channel/UC4gxIC4-oeR4ns3FpNr8vqA?view_as=subscriber
ただし、午前6時~午前0時まででお願いします

面倒くさいキャラ?

まぁ、正直、面倒くさがられる可能性はあります。
要は、やみくもに知識を求めてくる素人を、実際にその仕事をしている人はうざがる傾向があるのです。
その知識を何に使いたいのかの目的を明確にせずに、とにかく知りたいと、マニアックな質問をしてくる人がいるのです。
私は、田舎で公務員をしてるんですが、
例えば、都会から移住して来た人が「都会ではこれが常識ですが、この田舎ではこのレベル?」と言わんばかりに、その人の生活に関係ない制度のことまで質問してきたり、
弁護士を名乗る人が、自分の知識をふりかざす感じで、「この制度って、たしか◯◯ですよね?で、ちなみに、ここのこれってどうなってましたっけ?」
って、特に目的もなく(別件で来たくせにふらっと別の窓口にきて)質問してきたりすると、
不気味さ(こちらの力試しをされてる気分)があり、面倒くさいことがあります。

まずは、警戒されないよう、あなたがなぜ仏教を学びたいのかを表明して、「私は害のないただの素人です」オーラを出してみてはどうでしょうか?

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
私も目的があってお寺を参拝させてもらってます。

特に力試しがしたいわけでもなく、少しお話してみたい程度なんですよ。例えばお寺の前とかに書いてある文言などで意味がわからなくて、質問したい体度なんです。

なのに拝観料を払うときから、顔にあからさまに面倒くさそうな表情されると、もーさっかく高い交通費と時間をかけて来たのに!という気分になります。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ