日本仏教の僧侶について
私は出家希望者です。理由は正式な仏弟子になりたいからです。別にお寺の住職になりたいわけでもお葬式でお経を唱えたいわけでもありません。
しかし、最近思うようになったのは、日本仏教において僧侶は在家とほとんど変わらない生活をしています。お寺の住職は別として、それ以外のお寺を持っていないお坊さんは、在家のように働き、在家のように生活を送ります。
すると、どうでしょう?
僧侶といっても剃髪して法名をいただいているだけで、その実際は在家とかわりないわけですよね?在家得度というものもあるそうですが、そうなると出家と在家の区別って物凄く曖昧じゃないですか?
私は仏弟子になりたくて出家を希望していますが、仏弟子になるなら在家のままでもいいかもしれない、と悩みはじめています。
日本仏教において僧侶の存在意義って何なんでしょう?特に、お寺の住職ではないお坊さん。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
受戒はそれ自体が修行
勘違いされがちですが、出家するということは僧侶というアイデンティティを得ることではありません。自分というアイデンティティを手放すことです。だから出家したところで何の存在意義も無いんです。
それは読経や坐禅も同じ。読経する時は読経っきり。坐禅の時は坐禅っきり。そうして自分を手放すんです。特別な生活をして自分を高めるのではありません。余計なものを落とし切った時に、本来救われている大切なものだけが残るんです。だから受戒のことをこう言います。
>衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位(くらい)に入(い)る、位(くらい)大覚(だいがく)に同じうし已(おわ)る、
→受戒すればお釈迦さまと同じになれるよ!
あるいは「初発心時、便成正覚」とも言います。初めて発心した時、それこそが悟りを成じていると。
坐禅したって何の意義もありません。読経したって何の意義もない。じゃあなぜするか?意義っちゅう思考の産物を手放すためです。
自分は泥棒じゃない!といくら念じても、他人の物を盗めばその瞬間泥棒です。それと同じで私は仏弟子じゃない!といくら疑っても、受戒入位すればその瞬間、仏弟子です。身・口・意の行いが仏弟子なんです。
それを私たちがどう解釈するかなんてむしろ苦の原因でしかありません。その解釈で生きることを般若心経で転倒夢想と言います。事実から180度ひっくり返ったような妄想であると。あるいは十二縁起では取と言います。苦の原因すなわち煩悩には無明、渇愛、取の3つがあります。頭で意味づけや認定判定をして好き嫌いや評価を生むから苦が生じる…それが取です。
仏道を伝える側になるなら僧侶になるかどうかで、医者になるか家庭の医学の押し売りするかくらいに変わります。でもそういうわけではないなら、ぶっちゃけ出家しようがすまいがどっちでも良いんです。縁あらばすればいいし、無ければ無いでいいんです。テキトーに言ってるようで案外にここが大事。正しい師と巡り会えるかどうかこそが大切です。仏弟子と言っても、亡くなったお釈迦さまから直接指導してもらえるわけではないのですから。この人について行きたい!と思えたら改めてその人にご相談なさって下さい。
特に悩むことはないですよ。
>日本仏教において僧侶は在家とほとんど変わらない生活をしています。
放っておいてあげて下さい。
彼らは彼らの考えあっての事です。
清香さんがなぜ、仏教徒になられるのははわかりませんが、あなた自身がなりたい自分になればいいだけの事です。
人の事は放っておいても構いません。
僧侶としての存在意義......
清香さんは、僧侶になるための軸って何ですか?
仏弟子になるにあたって何回泣きました?
何回悔しい想いをされましたか?
僧侶の存在意義などは、苦しみ耐えて、その中で見えてくることです。
朝一から御本尊の顔を拝むことから始めて下さい。
我々の仲間になられる事、お待ち申し上げております。
私はお寺の僧侶ですがちょっと興味あったので回答させてくださいね。
阿含経典を読むと、お釈迦様が、在家で仏道修行に励む人に出家を勧めたり、在家の人がお釈迦様に帰依して弟子となり出家する話がたくさんあります。
お釈迦様自身も出家して覚りに至りましたね。
ですから、覚りに至るためには出家する方が環境がよいということだと思います。
しかし、必ずしも出家すればいいというわけではありません。その経典の中には、ちゃんと修行しない出家した人よりも、ちゃんと自らを戒めている在家の人の方が素晴らしいという話もあります。
つまり、お釈迦様は出家も在家も差別していないのですね。
大切なことはお釈迦様の教えをよく考え、実践して、自らを制し、苦しみの原因を滅尽し、正しい知恵を身につけ、慈悲の心で人々をその知恵で助けてあげる、ということなのです。
これが僧侶の存在意義だと思います。
日本においても同じです。
僧侶というのはその時代は確かに出家した人の集まりを指しましたが、今ではお釈迦様の平等思想(あるいは根本思想)に基づいて、お釈迦様に帰依する人は出家であれ在家であれ僧侶というのです。
あなたが仏教に関心を持ち、お釈迦様に帰依するなら、あなたも私達と同じ僧侶(仏弟子)なのです。
もっとも、各宗派の儀式を務めるためにはその宗派での師に弟子入りして資格を取得する必要はあります。もし弟子入りするなら、どの宗派が自分に合うのかよくご検討されるのがよいと思います。また、宗派が変わることもよくありますので、悩み過ぎないでくださいね。尊敬できる師が見つかれば、その宗派に属してもいいと思いますよ。
追記
少しニュアンスが違うかな?
例えば浄土宗の場合、出家といっても本山に期間限定の出家をして最終的な修行を行います。ですから、その修行を完了して資格を取得したなら、在家(寺の無い僧侶)に戻ってもその宗派の儀式を務めることは可能なのです。
でも、考えてみると、あなたの言う通りですね。
ただ、出家(というか期間限定の泊まり込みの修行)することで、頭の中の知識だけでなく、体を通してより深くその宗派の宗義を身につけることができる、ということはあるかと思いますよ。
また、本山での修行の完了はその宗派の僧侶としてはまだスタート地点に過ぎないので、その後は在家出家関係なく、自身の努力が大切なのです。
オススメ
現在NHK Eテレの100分de名著で維摩経について放送されています。
あなたのような疑問をお待ちの方は釈尊ご在世にもいらしたようです。
現在の日本仏教のあり方を考える上でも非常に興味深い経典です。
出家と在家の問題の回答の一助になると思います。
Eテレをご覧になるか維摩経についての書籍を是非お目通し下さい。
質問者からのお礼
聖章さん
回答ありがとうございます。だとすれば、出家者の意義は儀式を司式できる、ということにあるのでしょうか?
何故なら「お釈迦様の教えをよく考え、実践して、自らを制し、苦しみの原因を滅尽し、正しい知恵を身につけ、慈悲の心で人々をその知恵で助けてあげる、ということ」ができれば在家も出家も同じということになりますよね?
海老原さん
回答ありがとうございます。
私の軸は、ただお釈迦様の弟子になりたい、という思いです。私は仏教徒になるまでに他の宗教についても学び、持病のことや人間関係のことでたくさん悩み、たくさん泣きました。
ただ、在家のままでも出家のままでも大して変わらないのでは?と思い質問した次第です。だって、正直、出家すると時間もお金もかかります。在家と変わらないのなら私がそこまでして出家する意義はなんなのか、是非しりたいです
大慈さん
なるほど。自分を手放すことが出家なんですね。色々謎が解けました。
ありがとうございます!
藤さん
ありがとうございます!早速目を通してみます!