hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

今年で最後と思います。

回答数回答 3
有り難し有り難し 51

はじめまして。質問というより悩みについてです。

私は普通に生きている人間です。
要領が悪く仕事でも迷惑をかけっぱなしで全く上手く行かずミスばかりで呆れられています。

プライベートの人間関係も上手く行かず迷惑をかけてしまい距離を取られてしまうことがあります。

不器用でそれでいて感情のコントロールが難しく
生きづらく自分を責めて生きています。

ふと今年の春頃、殆ど最近です。
「今年のうちに死ななくちゃな」と
思いました。
本当にふとご飯のメニューを決めるかのようにそんな考えが浮かんでその思考にとらわれる形になり今年のうちに死のうと考えています。

嬉しいことも楽しいこともあります。
ただ自分がこうして存在してることが何より辛いし、いけない事で、義務的に死ななくてはと思います。

正直な話、死ぬことは恐ろしいです。
死んで救われるとも思いません。
ただ死ななくてはならないと強く思うんです。
今年中できればもう少し早く。
今年に出来る予定はなるべく無理でも入れました。来年の話ははぐらかしています。
なんだかそうしなきゃならない気がするからです。

今までの人生トータル的にはとても辛い事が多かったです。でも楽しい事もありました。
ですがもう今年のうちに決めてしまわないとならないと思ってます。
あわよくば死ねたらと毎日過ごしています。

自分のこの思考は正しいとは思えないのに死を思いながら生きています。
死ななくてはならないという事は運命なのでしょうか。好転して生きたいと思った時それは私自身を裏切ってしまう気がして怖いのです。

この思考を、捻じ曲げてやる事は出来るのでしょうか。遠ざけてやる事は出来るでしょうか。
長くなりましてすいません。
質問をさせていただきありがとうございます。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

握りしめている手を開いてみて

りつなさん

正しいと思えない思考にとらわれてしまっているのですね。あなたのご質問のなかには正しいものもあれば、間違っているものもあるように思います。

死ななくてはならないというのは運命です。いのちあるものは死ぬことがさだめですから、これは真理です。それはいつかはわかりません。明日かもしれないし、60年後かもしれません。だから生き方として、「今年に出来る予定はなるべく無理にでも入れて、来年の話ははぐらかしている」のは、正しい生き方であるとあると思います。来年があるなんて保証はありません。自分が死ぬ存在であるということを覚悟しながら、死を思いながら、いまできることに全力を尽くすのは善良な生き方です。

あなたがふと考えた「今年のうちに死ななくちゃ」は単なる思考です。思考や感情は実体があるものではなく、そのときに頭のなかを流れる想念です。空を流れる雲のようなものです。つかむものではありません。いま、とれわれいる考えは過去の雲の記憶にすぎません。一時的に「今年のうちに死ななくちゃ」という「黒い雲」が流れてきただけです。

実際、あなたには嬉しいことも楽しいこともあるのですよね。嬉しいとか楽しいというのは、きっと「白くてふわふあな雲」なのでしょう。あなたの心を空にたとえるなら、いろんな雲が流れてくるということです。それが人生です。あなたはたった一つの黒い雲をつかんでしまって、その手を握りしめています。

「この思考を、捻じ曲げてやる事は出来るのでしょうか。遠ざけてやる事は出来るでしょうか」➪はい、できます。握りしめている手を開いてください。 握っていたと思いっていたけど、そこには何もないはずです。

いのちあるものは生きたいと思うのが自然なことです。生きたいと思う気持ちに逆らうことこそが、自分を裏切ることなのです。

でも、あなたはその黒い雲のおかげで、人生でもっとも大切な真理を悟りました。明日はないかもしれない、今年が最後と思って生きるという生き方です。そう思って、悔いのないように毎日を生きてください。仙如

{{count}}
有り難し
おきもち

お釈迦様の教えと瞑想法は苦悩の多いこの世を生きるための「船」のようなものです。 人生には穏やかな波の日もあれば嵐のような日もあります。 どんなときでもお釈迦様の言葉を探すと必要な答えを見つけだすことができます たとえ嵐の日であっても波に飲まれないように「お釈迦様の船」に乗って心静かに瞑想しながら船旅を続けるのが仏教徒の生き方です わたくし≪仙如≫も 抵抗して、もがいてもがいて溺れかけて そんなことがようやくわかってきたところです(まだ溺れそうになることもありますけど!) 苦しいときはもがくのをやめて力を抜いてみてください・・・からだは水に浮かんできます。 そして瞑想してこころを静めましょう。そうすれば自分のこころの中に答えがみつかります。お釈迦様は最期に「自分自身をよりどころにしなさい」とおしゃいました。 諦めないで絶望しないで自分を信じて生きていきましょう。

何かしなければいけない ということは なにもない

死ななきゃいけない
生きなきゃいけない
どっちもないのです。

そんな理屈を前にオギャーと生まれて来て、今日まで生きてきた。
そこに生きなきゃいけないとか、死ななきゃいけないなんてなかったはず。

いつの間にか人間は賢いようで愚かなる思考に支配されていくことがあります。
その考えが本当に正しければあなたはもっと幸福感に満たされているはずです。

考えることで何かいい方向に向かうということはありません。
それはあなた自身がさんざんやって来られたはずです。

思考のペダルをいくらこいでも、でてくるのは思考ばかり。
人間にはもう一つのペダルがあります。

それが見ているもの聴こえているものを相手にする「事実」のペダルです。
見ているだけになる、聞いているだけになる。
そこに評論や評価が無くなる。

今、これを読んで頂いた時に、ただ、読んでいるということが先に行われています。
アレコレ思うのはあとから。

自分が死んだ方がイイとか、死にたいとか思っていたって、呼吸はあなたの意思とは無関係で呼吸しています。
それはアナタではない、命の側が「生きたがって」いるのです。
勝手に停めちゃいけないのです。

根性をコントロールしなきゃいけないとか、何かしなきゃいけないということを全部捨ててみましょう。
人間は心の中から決めごとや決めつけごとが全部なくなると大変すがすがしいのです。
関東でしたら、お寺の坐禅会に来てみてください。

五感の知覚がものを通す時、そこに
何の善し悪しも好き嫌いもないことを見てください。

自分の考えを離れた事実をあなたは知らないと思います。
死ぬのはそれを感じ取ってからでも遅くありません。

それを感じ取ると、考えに支配されることもありませんから、死にたいとか生きたいとかそういうのも飛び越えて安心安楽な心のありかたが見出されます。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

生きること死ぬこと

拝読させて頂きました。あなたがそのように思うことは意識の中であるでしょうね。
人は生きていく中で予定を立てて毎日を過ごしていますからふとそう感じることもあるでしょう。
ただ生きている中でおきることに予定を立てられるものと立てられないものがあります。
しっかりと詳細なシュミレーションをして万事準備を整えてもそう簡単に立てられないものが人の一生です。生老病死です。
必ずあることはわかっていてもそれがいつなのかは誰もわかりません。
人生一寸先は闇ですからね。
ですからあなたが抱いた死の思いはあまり確実なものとはいえないと思います。

借りにあなたがそう思って生きたとしてもその天寿を全うする時があと50年後になるとして、いざその時になってあなたはどんな思いになると思いますか?
おそらくは今と全く違う考えになると思います。

人はやはり生きていたいと思うのが人情です。例え一分一秒でも生きていたいと思うのが生きもののさがです。

いかがでしょうか?これからの一年をかけて生きることや死ぬことをじっくりと見つめ直してみてもいいのではないでしょうか。

生きていると確かにいろんな大変なことばかりです。本当に嫌になることやつらいこともたくさんありますよね。、それでも私達はそれぞれに役割や目的を与えられて生きています。

あなたがこれからの未来を己れの生きる目的に向かって進んでいかれて心も身体も充実して豊かに生き抜いていかれますようにと心よりお祈り申し上げます。

大切な生命ですからテキトーではないのです。適当に良い加減の中で生き抜いてくださいますようお願い申し上げます。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

煩悩スッキリコラムまとめ