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今年で最後と思います。

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はじめまして。質問というより悩みについてです。

私は普通に生きている人間です。
要領が悪く仕事でも迷惑をかけっぱなしで全く上手く行かずミスばかりで呆れられています。

プライベートの人間関係も上手く行かず迷惑をかけてしまい距離を取られてしまうことがあります。

不器用でそれでいて感情のコントロールが難しく
生きづらく自分を責めて生きています。

ふと今年の春頃、殆ど最近です。
「今年のうちに死ななくちゃな」と
思いました。
本当にふとご飯のメニューを決めるかのようにそんな考えが浮かんでその思考にとらわれる形になり今年のうちに死のうと考えています。

嬉しいことも楽しいこともあります。
ただ自分がこうして存在してることが何より辛いし、いけない事で、義務的に死ななくてはと思います。

正直な話、死ぬことは恐ろしいです。
死んで救われるとも思いません。
ただ死ななくてはならないと強く思うんです。
今年中できればもう少し早く。
今年に出来る予定はなるべく無理でも入れました。来年の話ははぐらかしています。
なんだかそうしなきゃならない気がするからです。

今までの人生トータル的にはとても辛い事が多かったです。でも楽しい事もありました。
ですがもう今年のうちに決めてしまわないとならないと思ってます。
あわよくば死ねたらと毎日過ごしています。

自分のこの思考は正しいとは思えないのに死を思いながら生きています。
死ななくてはならないという事は運命なのでしょうか。好転して生きたいと思った時それは私自身を裏切ってしまう気がして怖いのです。

この思考を、捻じ曲げてやる事は出来るのでしょうか。遠ざけてやる事は出来るでしょうか。
長くなりましてすいません。
質問をさせていただきありがとうございます。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

握りしめている手を開いてみて

りつなさん

正しいと思えない思考にとらわれてしまっているのですね。あなたのご質問のなかには正しいものもあれば、間違っているものもあるように思います。

死ななくてはならないというのは運命です。いのちあるものは死ぬことがさだめですから、これは真理です。それはいつかはわかりません。明日かもしれないし、60年後かもしれません。だから生き方として、「今年に出来る予定はなるべく無理にでも入れて、来年の話ははぐらかしている」のは、正しい生き方であるとあると思います。来年があるなんて保証はありません。自分が死ぬ存在であるということを覚悟しながら、死を思いながら、いまできることに全力を尽くすのは善良な生き方です。

あなたがふと考えた「今年のうちに死ななくちゃ」は単なる思考です。思考や感情は実体があるものではなく、そのときに頭のなかを流れる想念です。空を流れる雲のようなものです。つかむものではありません。いま、とれわれいる考えは過去の雲の記憶にすぎません。一時的に「今年のうちに死ななくちゃ」という「黒い雲」が流れてきただけです。

実際、あなたには嬉しいことも楽しいこともあるのですよね。嬉しいとか楽しいというのは、きっと「白くてふわふあな雲」なのでしょう。あなたの心を空にたとえるなら、いろんな雲が流れてくるということです。それが人生です。あなたはたった一つの黒い雲をつかんでしまって、その手を握りしめています。

「この思考を、捻じ曲げてやる事は出来るのでしょうか。遠ざけてやる事は出来るでしょうか」➪はい、できます。握りしめている手を開いてください。 握っていたと思いっていたけど、そこには何もないはずです。

いのちあるものは生きたいと思うのが自然なことです。生きたいと思う気持ちに逆らうことこそが、自分を裏切ることなのです。

でも、あなたはその黒い雲のおかげで、人生でもっとも大切な真理を悟りました。明日はないかもしれない、今年が最後と思って生きるという生き方です。そう思って、悔いのないように毎日を生きてください。仙如

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おきもち

お釈迦様の教えと瞑想法は苦悩の多いこの世を生きるための「船」のようなもので...
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何かしなければいけない ということは なにもない

死ななきゃいけない
生きなきゃいけない
どっちもないのです。

そんな理屈を前にオギャーと生まれて来て、今日まで生きてきた。
そこに生きなきゃいけないとか、死ななきゃいけないなんてなかったはず。

いつの間にか人間は賢いようで愚かなる思考に支配されていくことがあります。
その考えが本当に正しければあなたはもっと幸福感に満たされているはずです。

考えることで何かいい方向に向かうということはありません。
それはあなた自身がさんざんやって来られたはずです。

思考のペダルをいくらこいでも、でてくるのは思考ばかり。
人間にはもう一つのペダルがあります。

それが見ているもの聴こえているものを相手にする「事実」のペダルです。
見ているだけになる、聞いているだけになる。
そこに評論や評価が無くなる。

今、これを読んで頂いた時に、ただ、読んでいるということが先に行われています。
アレコレ思うのはあとから。

自分が死んだ方がイイとか、死にたいとか思っていたって、呼吸はあなたの意思とは無関係で呼吸しています。
それはアナタではない、命の側が「生きたがって」いるのです。
勝手に停めちゃいけないのです。

根性をコントロールしなきゃいけないとか、何かしなきゃいけないということを全部捨ててみましょう。
人間は心の中から決めごとや決めつけごとが全部なくなると大変すがすがしいのです。
関東でしたら、お寺の坐禅会に来てみてください。

五感の知覚がものを通す時、そこに
何の善し悪しも好き嫌いもないことを見てください。

自分の考えを離れた事実をあなたは知らないと思います。
死ぬのはそれを感じ取ってからでも遅くありません。

それを感じ取ると、考えに支配されることもありませんから、死にたいとか生きたいとかそういうのも飛び越えて安心安楽な心のありかたが見出されます。

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おきもち

生きること死ぬこと

拝読させて頂きました。あなたがそのように思うことは意識の中であるでしょうね。
人は生きていく中で予定を立てて毎日を過ごしていますからふとそう感じることもあるでしょう。
ただ生きている中でおきることに予定を立てられるものと立てられないものがあります。
しっかりと詳細なシュミレーションをして万事準備を整えてもそう簡単に立てられないものが人の一生です。生老病死です。
必ずあることはわかっていてもそれがいつなのかは誰もわかりません。
人生一寸先は闇ですからね。
ですからあなたが抱いた死の思いはあまり確実なものとはいえないと思います。

借りにあなたがそう思って生きたとしてもその天寿を全うする時があと50年後になるとして、いざその時になってあなたはどんな思いになると思いますか?
おそらくは今と全く違う考えになると思います。

人はやはり生きていたいと思うのが人情です。例え一分一秒でも生きていたいと思うのが生きもののさがです。

いかがでしょうか?これからの一年をかけて生きることや死ぬことをじっくりと見つめ直してみてもいいのではないでしょうか。

生きていると確かにいろんな大変なことばかりです。本当に嫌になることやつらいこともたくさんありますよね。、それでも私達はそれぞれに役割や目的を与えられて生きています。

あなたがこれからの未来を己れの生きる目的に向かって進んでいかれて心も身体も充実して豊かに生き抜いていかれますようにと心よりお祈り申し上げます。

大切な生命ですからテキトーではないのです。適当に良い加減の中で生き抜いてくださいますようお願い申し上げます。

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Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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「後悔・自己嫌悪」問答一覧

ペットロスから立ち直れません。

2月に愛犬を亡くしました。 小型犬で9歳と、短い命でした。 4歳の頃より、コントロールが出来ていればすぐに命に関わる物ではないが、治すための治療法はない病気でした。 予防法も無く、かかる子はかかってしまう病気でした。 人間では難病指定されている病気です。 寿命まで生きられる可能性も十分にある病気だったのですが、長生きさせてあげられることが出来ませんでした。 異変があってから病院には毎日のように連れて行っていましたが、昔からの自分の気の弱さで精密検査をしてほしいと強く言い出す事が出来ずに治療が遅れてしまいました。 獣医が変だと思い検査をしてくれた時には、普通に立っていられるのがおかしいと言われる程でした。 私は気づいていたのに、検査をしてくれない時点でセカンドオピニオンへ行くべきだったとずっと後悔をしています。 助けられなかった悔しさ、違う病院に行く判断が出来なかった情け無さ、大好きな自宅ではなく病院で逝かせてしまった申し訳なさ、9年間を振り返った時の「もっとああしてあげたかった、こうしてあげたかった」と、愛犬に対する申し訳ない気持ちで中々前を向くことができません。 いい歳をして過去に戻る方法がないのかなど非現実的な事をひたすら調べてしまったりと、ずっと愛犬の体調不良に気がついた時期に執着をしてしまいます。 愛犬のためにも前を向きたいのですが、どのような考え方をしたらいいのかを教えていただきたいです。 相談できる人も周りにいません。 2月から涙を流さない日が無く、愛犬のお仏壇に謝ってしまいます。 空にいる愛犬を心配させないためにも、これからは前を向いていきたいです。 よろしくお願いいたします。

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整形したことの後悔と向き合いたい

つい先日、目の下のクマを取る手術をしました。 私は昔から目の下にぷっくりと脂肪があり、それが長いことコンプレックスになっていました。 メイクや運動などあらゆる事を試しても改善しなかったので、最終手段として選んだ整形でした。 今は術後で腫れている状態なのですが、今更になって本当にやってよかったのだろうかと後悔の気持ちが湧いてきました。 手術は痛くて怖いものでした。 また術後間もない今はまだ痛みや腫れもあり不安です。 こんなに痛い思いも不安な思いもして、大金を払って、本当にこの決断は正しかったか自信が持てません。 でもどんな顔になったとしても、二度とあんな痛くて怖い思いをして整形などしたくないし、この顔で生きていこうと思っています。 親や周囲はコンプレックスを気にすることないと言ってくれましたが、決断を尊重してくれました。 前のままでも愛してくれた人は沢山居たはずなのに、私はコンプレックスさえ解消されれば全てうまくいくような気持ちになっていました。 後悔しても仕方ないことと分かっていますが、気持ちが追いつきません。 この気持ちは一生ついて回ってしまうと思います。 取り返しのつかないことへの向き合い方について、ご助言頂けますでしょうか。

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僕はいま21歳で社交不安障害持ちです。 中学生の頃には確実にあったので少なくとも8年間は社交不安障害持ちです。 全く治りません、自分と向き合うこともできません。 正直、今までの8年間ってとても大切な時間だったと思います。 今まで友達と遊んだことも1,2回しかありません、恋愛なんてできなかったです。 教室でもずっと一人で誰とも仲良くなれませんでした。 本当はみんなに興味があったし、もっと友達も欲しかったですし、恋愛だって1回でもいいからしてみたかったです。でも話しかけることも何もできなかったです。 こういうことを言えば、「まだ未来でできる可能性はある」とかいうコメントを見ますが、それを見れば「自分は失敗したんだ・・・」と辛いです。 それに未来でできたところで、過去にできなかったという事実は変わらないし、今にフォーカスすることで過去を見る暇がないようにして誤魔化しているだけにしか思えないです。 結局本当の意味で治すには過去に戻るしかないんだと思います。 でもそんなことはできないです。 そもそも傷つけてきた人がいたのにその人は何の責任も取ってくれないというのが悔しいです。 障害を与えられて、それまでの若くて一番貴重な時間や経験まで奪われたのに、なのにのうのうと生きているのが悔しいです。 さらに、自分自身で向き合わなければならなくて、それが出来なかったら自分が苦しむ羽目になるとか不条理だと感じてしまいます。 そんなこと思っても意味がないことはわかっているのに。 大学は通信制ですが、通学制の人たちを見るとみんな友達がいて学生という時間を活かして遊んでたりとか羨ましいです。 僕は残念ながらそんな友達がいません。誰もいないです。 そういうことをしようとしても社交不安障害が出てきて出来ません。 何度も後悔して、次は治そうとしても全然出来ません。 そしてまた辛くなるだけです。自分の人生がこんなのなんて嫌です。 質問になってなくてすみません。 とにかく気持ちの良いものじゃないです。 辛くてどん底にいる気分です。 いっそのこと心をへし折ってもらってもいいです。 そこで0から立て直すのもありです。 社交不安障害は気になれば各々調べてもらえると助かります。 とにかくどんな言葉でもお坊さんの言葉を聞きたいです。どんな言葉でもいいです。 長文ですみません。

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自分の過去の行いが許せない

こんにちは。初めて相談させていただきます。 何年か前から今まで犯してきた過ちや罪を振り返ることが増えました。 というよりはようやく今まで自分のしてきたことの重さと意味に気が付いたのだと思います。 お手数おかけしますが詳しいことはプロフィールを確認していただきたいです。 今回は中でもかなり重いものについての相談ですが、振り返ればこの件に限らず私は過去に何度も人を傷付けてきたと思います。 こうして言葉にすると軽くなってしまいますが相手には本当に心の底から申し訳ないと思っています。 傷付けた方が何を抜かすのかという感じですが自責の念で苦しいです。 とんでもないことをしてしまったと思います。過去の自分が許せないし恥ずかしいです。 謝って済むことではないにしろ、できることなら相手に直接謝りたいですがもう謝ることはできず、それに謝罪したいと思うこと自体謝ったからもう良しと一方的に区切りを付けて楽にしたいだけなのではないかと思うとまた自分に腹が立ちます。 過去は取り消せないし、やってしまった事が事でありもう謝罪もできない以上、二度と間違いを繰り返さずその上で自分のした事を一生忘れず背負って生きていくしかないのだと思います。それがわかっているのにも関わらず、自分が苦しいからとこうして相談していることも随分都合のいいことのような気がしてまた自分に腹が立ちます。 今の自分はもう二度とそんなことはしないし何より絶対にできないと誓えますが、それでもまた誰かを傷付けるような真似をしたらどうしようと思うと不安でたまりません。当時も許せないという短絡的な思いから酷いことを書いてしまったのにも関わらず今もこうして自分が許せないと思っている時点で根本は何も変わっていないのではないかと思い不安です。 親や知人の前で普通に振る舞ったりするのも自分のせいで今も苦しんでいる人がいるかもしれないのにこんなことしていていいのだろうかと考えてしまいます。 現在は常に正しい人間でありたいと思っていますがそうあれないことが辛いです。 もっとも、くどくど自分が自分がと書き連ねてきましたが私が傷付けてしまった人たちの方が余程辛い思いをしていると思います。そういう自分の甘さも腹が立ちます。 私はこれからどうすべき、どう償うべきでしょうか。 乱文失礼しました。お忙しい中ご負担をお掛けしてしまい申し訳ありません。

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私には信頼できる友達がいて、家族との関係も良好であり、周りの人にとても恵まれていると思います。 私はおしゃべり好きではありますが、自分の意見を曲げずに押し通したり、思いやりのない行動はしないように気をつけてきたつもりでした。 しかし、以前付き合っていた方に対して、私はどうしようもなく自分勝手な言動をしていました。 当時は、相手が自分のことを好きでいてくれることに調子に乗り、自分の感情を優先していたのだと思います。 自分は相手に寄り添おうとしていなかったのに…です。 相手の性格や生活スタイルを考えずに連絡を強要したり、きちんと感謝していなかったり、自分勝手な言動を思い返せばきりがありません。 価値観の違いですれ違ったというより、私の身勝手で上から目線な言動に相手が耐えられなくなったのだと思います。 相手の気持ちや、そのときの状況を考えれば間違っていると誰にでも分かるようなことをしていましたし、相手には嫌な思いをたくさんさせてしまったと思います。 冷静になって振り返ると、自分で自分が信じられないです。 また、不安や寂しさといった感情をコントロールできなかったことも自分自身の弱さであり、そのような芯のない自分が情けないと思っています。 今は反省反省の日々なのですが、誰に対しても謙虚に思いやりをもって生活していれば、自分を変えることはできるでしょうか。 まとまりのない文章で申し訳ありません。 ご回答いただけますと幸いです。

有り難し有り難し 8
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ