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自死した娘の魂

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お世話になります。
先日も娘のことで質問させていただきました。
自殺でもちゃんと成仏できると言ってもらえて、ほんの少し気持ちが軽くなりました。
ありがとうございました。
娘は、電車に飛び込んで逝ってしまいましたが、
私はまだその駅に行ってないんです。
でも、ほかの人から、「そこの場所で魂が迷っているから迎えにいってあげなさい。49日までに行ってあげないと帰れなくなるからね。」と言われました。
本当は私も娘の最後の場所を見届けてあげたいのですが、
今の私にはとても行けそうにありません。
母親なら、頑張って迎えに行くべきですか。
娘が迷うといわれているのに、駅にすら行けないなんて、本当に情けない母親です。
みんなに「しっかりしなさい」といわれますが、生きているだけでもしんどいんです。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

泣いて、泣ききって

みのりさま
なごみ庵の浦上哲也です。

「そこの場所で魂が迷っているから迎えにいってあげなさい。49日までに行ってあげないと帰れなくなるからね」という発言、どこのどなたが こんな適当なことを言って、みのりさんを苦しめているのでしょう。

これを聞いて、現場に行けず苦しみ、でも行かなくてはならないのではと苦しんでいる みのりさんの気持ちを想い、私も胸が苦しくなりました。言った相手に憤りすら覚えます。

お嬢さんの魂は迷ってなどいません。もちろん苦しんだり、この世をさまよったりもしていません。人生を精いっぱい生ききって、今はやすらかな気持ちになって仏さまの世界にいらっしゃって、縁ある人びとを見守っていると私は信じています。

目に見えない問題ですから、色々な方が色々な事を言ってくると思います。その多くは好意から発せられたものでしょうが、中には迷信や、悪意のあるものもあると存じます。

もう一度申し上げますが、お嬢さんの魂は迷っても苦しんでもいません。ぜひ専門家である僧侶の言葉を信じて頂き、門外の人の言葉を退けて頂きたいと思います。

また「しっかりしなさい」というのも心無い言葉です。何よりも大切な我が子を失って、短い時間でしっかりすることなど誰が出来るでしょうか。

泣いていいんです。泣いて泣いて、泣ききってください。17年間、手塩にかけて育てたのですから、17年間泣いてもいいじゃないですか。みのりさんがどんなに嘆き悲しんでも、それでお嬢さんが迷ったり苦しんだりすることはありません。

お嬢さんが人生を生ききったように、みのりさんも泣ききって、その先にお嬢さんとの新しい関係が開けるのではないかと思います。

苦しい時には、どうぞまたhasunohaに思いを綴ってください。

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おきもち

横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗の教えが好きで、それを人に伝えたいと思い、自宅で法話会を始めてご縁の輪が広がりました。
相談の日程や時間はご相談ください。

ご自分が行けない時は仏さまにお願いしましょう。

みのりさん。

お苦しい事と思います。

真言宗の私が授かった流れ(伝授)の立場でお話ししますね。
私が授かった流れであれば、
真言僧侶は通夜のとき、もしもその場にご本人が居られない場合
亡くなったご本人を、たとえどこにいようと
(もしお浄土以外であれば)その場に呼び戻して通夜葬儀を行なうのです。

だから、葬儀が終わっているのであれば大丈夫です。

でも、親として、見えない世界のことは心配ですよね。
何の知らせがあるわけでも無いので、言葉だけでは信じられないかもしれません。

かといって、現場など行くのはとても酷であると思います。

そんな時は、是非、みのりさんにご縁のあるお寺か信じているお寺があれば
そこへ行って御本尊様に、娘さんの名前と状況を心の中で伝えて
もしも万が一その場に停まっているような事があったら
その場からお救いください!と一生懸命祈って下さい。

仏さまは必ずやお救いくださいます。

もし、お寺さんが思い当たらない場合は
不動明王をおまつりしているお寺で
お不動様に祈ってみることをお勧めします。
とても心配であれば護摩を修してもらってください。

きっと仏さまに守られて 大丈夫である事が、実感としてわかると思います。

追記:亡くなってすぐに全てが大丈夫で何の問題も無いとは私の宗派では申しません。
亡くなった方のフォローとして年忌の法事があります。
娘さんのために仏縁を結んで、お母様が仏さまに祈って下さればと思います。
四十九日も年忌も遺族のためだけでも亡くなった方のためだけでもありません。
亡くなった方も頑張って修行をされるのです。
そのための杖のように法事やご遺族の巡礼が作用すると思うと良いと思います。

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おきもち

個別相談可能
仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さんだと思っております。 法昌という法名で、和歌山県の高野山の西禅院が所属寺院ですが、 普段は東京都町田市のマンションで手作りの密壇でひたすら修行を続けている  はぐれ行者です。 伝法灌頂も中院流の一流伝授も授了させていただいております。 娘を持つ母であり、一家の主婦でもあり、親の介護もあったりします。 エッセイや文章、そして漫画家として漫画も描いております。 イーハトーブクリニック萩原医師の指導をいただきヒプノセラピスト(催眠療法士)でもあります。 基本的に隣のおばちゃん的な、でも変わった尼僧です。
ご相談可能な時間はその日ごとに違うので、いくつかご都合を書いてくださいね。 人生で悩んだ時に、最善の答えを与えてくださるご神仏と、あなたは心の奥で必ず繋がっています。ご自身の心の中からご神仏のお答えが受けられるようにアドバイスをさせて頂きます。 ◆著書:「神さま仏さまがこっそり教えてくれたこと」「迷いをすっきり消す方法」「幸せを呼ぶ仏像巡り」

迷うなんてことはありません

亡くなった方は、どんな形であれ、間違えなく迷わず、この世を去ります。肉体はなくなります。しかし、いのちは形を変えて存在し続けます。生きている時より更に身近に感じられるようになると言われる方もいます。残された方は、「〇〇すべき」「〇〇できない自分は駄目だ」なんて思う必要は一切ありません。それらの苦しみは全て妄想です。

もし娘さんが迷っているなら、そんなことを言っている人に連れてきてもらいたいと思います。
連れてくることなんて誰にもできませんよ。間違えなく迷ってないのですから。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

それがあなたの迷い、未成仏なるこころです。

本当の成仏とは「あなた自身が成仏する」ことなのです。
仏陀の正しい導きによって、命というものがそれぞれ無我、無私であって、不生不滅なる道理に目覚めることです。
「その人に対する、自分の気持ちを手放して、自由にしてあげて、晴れやかになる」ことです。
たとえば、母親が亡くなったとする。
3人の子供がいたとします。
2人はしっかりと弔い、なすべきをした。
ところが一人だけ、どうしても何もしなかった。
この場合、この一人の中でだけ何もなされていないので、後ろめたさや、気持ちの引きずりが長く残ります。自分の中で処理しようとするから、供養にならず、ずっとわたくし化されているからです。
僧という司祭が第三者として、そこに介入し、我の取り込みや執着を断ち、故人を悼む気持ちのある方が、無私、無我なる仏の心と等しくなってゆくことで、真実を真実のままとして観ることができるようになってゆくのです。
亡き人を想うのは、わたし(自分)。
その、わたしのこころの中で、亡き人への思いが展開される。
今も苦しんでおられるのではないか、もっとこうすればよかったと、思い起こされる。
それらが、❝わたし❞という自分の中で思い起こされて暴れている思いなのです。
その姿は❝私❞の心にだけ、そのように映し出されたもの。
私とその人との関係が今もなお続いているという事なのです。
だから、その苦しみを救うには、自分の心を救うほかにないのです。
自分が無私、無我、無常を悟って、自分の心が成仏することで、亡き人も成仏する。
その人を想う、その思う気持ちこそが「霊魂」の本来の意味だからです。
きちんとした心の語らい、自分とその人との向き合いをもっと深めるべきです。
あなたは、今、自分の悲しみに苦しんでおられる段階で、亡き人とまだ、本当に向き合っておられないのではないかと思います。
供養の中心は、亡き人と生きる人とのコミュニケーション以外の何ものでもありません。
自分が向き合っている相手は誰でしょうか。
おそらく、いまだ自分自身…。
そこをさらに掘り下げて、お嬢さんに向き合ってあげて、無私、無我にお目覚めください。
その為にも仏道を求めてください。
何も、そこの場所に行くことが供養になる訳ではありません。
お嬢さんが何に苦しみ、何故その道を選択したか、それを問わず、ただ、赦してあげることです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

浦上さま、ありがとうございます。
「迷ってもないし、苦しんでもいない」この言葉が今の私にはなによりの励ましです。

悟東さま、ありがとうございます。
葬儀は真言宗のお寺さんにお願いして無事に終わっています。
大きな刀を持った不動明王さまが娘のそばにいらっしゃいます。
救ってくださると信じます。

邦元さま、ありがとうございます。
娘のことで、回りの方からいろいろ慰めていただきますが、
よいことよりも、悪いことばかりが心に残ってしまうのです。
その駅も今まで何度もこのような事故があり、
回りの方も「ああ、あそこか」と。
なので、私も死んでからも娘が、その場所のなにかに囚われているのではないかと。
ですが、ここの力強い回答を繰り返し読んで、
娘の魂は大丈夫なのだと信じようと思います。

丹下さま、ありがとうございます。
今の私は、自分を責めることしかできなくて、娘と向かい合えていないのかもしれません。
明日目が覚めたら、30年くらい過ぎていて、すぐに娘が迎えにきてくれないかなと祈るような気持ちで
眠りにつきます。
そうですね、自分のことしか考えていないですね。
何にも答えてくれない娘と語り合えるときが、いつの日か来るのでしょうね。

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