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菜食主義についてのモヤモヤ

回答数回答 4
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前回はありがたい回答ありがとうございます。
またお世話になります。

最近は日本人にも野菜しか食べないベジタリアンが増えていますが、私は菜食主義についてずっと悩んでいます。
アレルギーがあるから、宗教の関係で食べれない、なら理解できます。
でも「豚や牛だって命があるのに」「可哀想だから」という理由の人もいます。

そういった理由には疑問を抱いてしまいます。
私は小さい頃から曽祖父に「お米にも神様がいるんだから一粒だって残しちゃいけない」「食べ物全てに感謝して食事を頂きなさい」と言われていたのもあって、何故牛や豚は可哀想などと優劣をつけるのかと感じます。

牛や豚だろうが草花だろうが生きてることに変わりないと思います。
菜食主義だけでなく、イルカやクジラは賢いから殺しては駄目だ、など生き物の中で優劣をつけて保護したりするのは人間のエゴではないかと思います。

お坊さん方はどう考えますか。色々なご意見をお伺いしたいです。
よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

こんにちは。

 同感です。特に日本人は、筆や針などにも魂があると考え、使い終わった筆を納める「筆塚」や、「針供養」といった行事などもあります。

 おっしゃる通り、お米や野菜にも命はあります。細胞の核がDNAで構成されているとか、動物も植物も基本は同じです。
 また野菜を食べる事が、「生き物」を殺さないことになっているのか?野菜を育てるために、害虫や害獣を駆除していますので、そういう事にはならないと思います。

 そう考えると、命を殺さないで私たちが生きていくのは不可能ですよね。

 仏教には「不殺生戒」がありますが、私は「殺すな」ではなく「活かせ」という戒だと考えています。
 どんな食べ物も、残さず食べること、道具は大切に使うこと。そういう事だと思います。

 蛇足にはなりますが、以前「ツイッター」で話題になった言葉を思い出しました。そんな菜食主義者に会ったときの心の対処法として参考にしてください。

 インド人は、牛食ってる僕らのことを「野蛮」とか「牛は聖なるものだから食べるな」とか言わず、「別にいいんじゃね?俺らは食わないけど」って言うから好き。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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お互いにそう思っている

私はなんとな〜く可哀想な気がするからベジタリアンになる…という感覚は幼稚であるとさえ思います。でも、掘り下げると色々複雑なんです。

お米にも神がいて、生命がある…この感覚は多神教の国でよくあります。日本では神道の八百万(やおよろず)の神と言います。しかしこの感覚は一神教の人たちには理解し辛いものです。それを理解できない人がいるということを、我々は知らねばなりません。

イルカやクジラはが賢いから殺してはいけないという感覚は、私達には「はぁ?なに言ってんの?」という感じですね。なぜ扱いが違うのか?聖書が背景にあります。旧約聖書では最初の人間が禁断の知恵の実を食べた罰としてエデンの園を追放されます。これは人が人間社会の独自性を見出したことで、自然界と袂を分かったことを暗喩しています。だから西洋の人たちにとって知恵を持つということは、単に可哀想なだけでなく同族意識に近いものなのかもしれません。

逆に家畜は自然界の動物とは違い、創造主たる神から人間へ糧として与えられた存在です。生物を列挙する時に人と、海の魚と、空の鳥と、家畜と、地の獣と、地のはうもの…と挙げています。家畜と動物は同じだけど別枠なんです。「家畜は家畜なんだから家畜なりの扱いで当たり前だろ?クジラと一緒にするなんて何言ってんの?」という感覚です。草木も生物の糧として神から与えられているそうです。

もちろん聖書を意識してそう考えるわけではありません。しかし宗教的バックボーンからなる文化として、親や周囲の人たちから自然に受け継いだ民間の感覚として、なんとなくそっち方向の発想になるわけです。

私達としては理屈は分かりますけど全く納得できませんね。でも、それはお互い様なんです。「お米にも神がいる。草花だって生命がある。」と言われて「はぁ?なに言ってんの?」と納得できない人もいるのです。

だからまずは『エゴというものは知らず知らずのうちに押し付けてしまいがちなもの』と理解しましょう。軽々しく他国や異文化を批判しないようにせねばなりません。
そしてできれば自分の信条のルーツを知り、「できるだけ区別しないのが仏教や神道をルーツとした価値観です。そこに干渉されても困ります」としっかりと説明できるようになりましょう。狂信的な人の実際の割合は、噂で話題になっているほどには多くないものです。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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自分の良心からの答えを見つけてください

瑞月さん

菜食主義について悩んでいるのですね。私もあなたのように草花も野菜もお米も生きていると感じます。牛も豚も生きているし、魚も虫もゴキブリも害虫も生きています。だからペット動物に対する動物保護団体とかイルカやクジラを保護する人たちには偽善性を感じています。犬や猫を捨てるなと騒ぐのに、鳥インフルエンザや狂牛病の「処分」には何も感じいなの?そのバッグや靴は牛の皮膚じゃないの?っとツッコミたくなるので近づきません。

牛も殺されそうな雰囲気はちゃんとわかっています。医学の研究で小動物は大変な苦痛を強いられています。ガンにされたり、生きたまま内臓や身体を切れられたりします。私たちが使うシャンプーが安全かどうかを試すために、うさぎの目にシャンプーを入れたりもします。こういうことをしながら生き延びてきたのが私たちです。だから牛や豚を食べなけらば済むような問題でもありません。でも完璧にできないから言い訳して無神経でいていいことではない、というのが私の考えです。他の人がどうあるかではなくて、自分がどうあるかです。私はヴィーガン(菜食)です。革製品もダウン製品も買いません。石鹸などを買うときは動物実験をしていない会社の商品を買います。蚊やゴキブリは虫取り用の網で捕まえて逃がすようにしています。それでも、歩いていればアリを踏みつぶしているでしょうし、スズメバチが巣をつくったら退治するしかないかもしれません。病気で苦しんだら、治療も受けるし薬も飲むでしょう。でも私は私のできる限りの「不殺生」を生きることで、心は平和になりました。

ガンジーやシュバイツアー、アインシュタイン、プラトンなども菜食主義です。ロシアの思想家トルストイは「動物を食物とすることを神が許したと信じさせられた結果、人々は動物を食うことを悪いことだと考えなくなったが、たとえいかなる書物に動物を殺したり食ったりすることが罪悪でないと書かれていようとも、いかなる書物におけるよりもはっきりと、動物を殺したりしてはならないと言うことが、人間の心の中に書き記されている。自己のと良心を殺さない限り、みなその事を知っている」と記しています。あなたのもついのちへの感性を大切にしながら「瑞月さんの良心」からの答えを見つけていってください。仙如

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お釈迦様の教えと瞑想法は苦悩の多いこの世を生きるための「船」のようなもので...
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山も川も草も木も仏の心を持っている

瑞月さん、はじめまして。質問を拝読いたしました。

瑞月さんは、菜食主義についてずっと悩んでいるのですね。その理由はなぜ牛や豚は可哀想などと優劣をつけるのかが分からないからですね。

仏教では山も川も草も木も仏の心を持っていると説きます。なので、瑞月さんが仰るとおり生きものに優劣をつけることはできないと思います。

「お米にも神様がいるんだから一粒だって残しちゃいけない」
「食べ物全てに感謝して食事を頂きなさい」
このような心持ちから(命を)いただきますという言葉が生まれました。

菜食であっても命を頂いているのです。

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おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の...
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質問者からのお礼

皆様、ありがたいお言葉をありがとうございます。
多神教、一神教で考え方が大きく違うこと、宗教の歴史的背景を考えれば納得できる理由があったこと、己の考え方もまた他者に対するエゴになりえること、皆様の回答を読んで深く考えさせられました。

なんとなく引っかかっていた疑問がここまで深いものだとは思いませんでした。
自分の知識、思慮の浅さが恥ずかしいです。
何事にもきちんとした根本があること、無知であることこそ恥であり相手側のこともきちんと考え、自分の意見を押し付けないようにしなければと思いました。

人は生きるために他者に生かされている、という気持ちを忘れずに日々過ごしたいです。
日本に生まれたからこそ育った価値観を大切に「うちはうち、よそはよそ」で互いの文化、宗教を尊重していこうと思います。

本当にありがとうございました。

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