生きる意味が分かりません
生きる意味って何なのでしょう?
私はもう生きる気力が尽きかけようとしています。体を動かす気力もなくなってまいりました。
人生辛くて辛くてたまりません。いっぱい傷つけられて立ち直って、その繰り返し。色んな人から心に包丁を刺されているみたいです。受け流すのも、受け入れるのも疲れました。
人に頼れば、立ち向かえ、頑張れと言われますが、もう立ち上がる気力すらありません。
生きる意味って何なのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
印象操作は言葉の迷路
キツイ意見です。キツイのが嫌なら、お手数ですが読まないことをお勧めします。
こんばんは。もう何とも辛くて仕方無い。話を聞き入れる余裕はない。そんな叫びにも似た問いであると感じます。
けれど、その「真っ暗な迷路のよう」に見える人生は、貴女の印象操作によるものなのですよ。「印象操作」というと、何ともイヤーな感じですが、「本来の事実に対して、言葉で表現することで、それと異なった印象=見え方をする」ことですよね。これ、「他人に対して見せる」だけでなく、「自分に対しても、そのような印象で見せる」ことができるのです。言葉のもつ機能の一つです。つまり、「結婚は墓場だ」も印象操作、「結婚はバラ色だ」も印象操作なのです。
なので、「人生が辛くて辛くて」も貴女の印象操作です。事実はこうです。「人生は辛いこともある。けれど、楽しいこともある」。いかがですか?生きてきて色々あったのに、「人生は」という一言にまとめてしまい、しかも「辛い」と一言にまとめてしまっている。この「言葉でまとめる」は、誰がどうやったって印象操作にしかならないのです。「そんな一言にまとめるなんて作業を止めましょう」と言っていると思いますね、仏教は。そもそも、まとめる事に意義がありますか?なぜ一言でまとめようとするのでしょうか?
さて、それでも「生きる意味」は言葉で言うことができます。「仏教にのっとった生活をおくるため」です。具体的には八正道と言いますが、「正しく見る、正しく考え判断する…」という、8つの行為の在り方を身に付けていくことです。分かりますか?「人生」というのは「行為の集合」なのです。
ですから、「生きる意味」を考えるとは、実際「生活の一つ一つの行為の在り方と目的を考える」ということなのです。私たちがひとつひとつ判断して能動的に行えるのは、「人生そのもの」ではなく「ひとつひとつ」の行為しかありません。
でも貴女は「人生の意味って…!」と立ちつくしている。それはやはり、「目を向けたくない一つ一つのことから離れる」ため…恐らく何か自分を守る為…であろうと思うのです。具体的には勉強だったりします。「散々だった」試験の、その後どうしていますか?「人生って…」とか答える気もない問いを考えているよりも、勉強法を研究した方が良いのではありませんか?
手段を目的としないために
けい様
川口英俊でございます。問い拙生のお答えでございます。
生きる意味や価値、理由というものは、「これだ」と決定して言えるようなものはなく、ただ、様々な因縁(原因と条件)によって、更には、私たちそれぞれの恣意的なことによって、一応、言えているようなものとなります。
それは、全く無いというわけではないものの、かといって、実体として有り得ているようなものではないというものになり、それだけのみならず、全てのモノ・コトも、因縁次第として成り立っているものであります。
仏教的には、「全ては縁起し空である」ということなのですが、理解は難しいところもありますので、今はスルーされておいて下さい。
とにかく、頑張ることも、挑戦することも、前向きに取り組むことも、世間では当たり前のように奨励されるようなことながら、実は、目的がすり替わってしまって、何故か、頑張ること、挑戦すること、前向きに取り組むことが、目的となってしまい、本来の目的である、幸せや成功、心の豊かさ、ゆとりなどとは掛け離れたものとなってしまっていないかどうかに注意が必要となります。
あくまでも、頑張ること、挑戦すること、前向きに取り組むことなどは、手段であって、目的ではないはずです。
目的となってしまっている手段など、所詮無駄にしかなりません。また、他人から言われる根拠のない手段ほど役に立たないものもありません。
今は、休むべき時、立ち止まって考えるべき時であるのではないかとも存じます。
頑張り過ぎず、無理し過ぎずに。また宜しければ詳しいこともhasunohaでお聴かせ下さいませ。
そして、是非、学び実践して頂きたいのが、仏教となります。
仏教では、究極的な幸せ、究極的な楽としての悟り・涅槃を目的として、そのための手段をお釈迦様がたくさんに、それぞれに応じた方便にて説き示されておられます。
世間の目的など、所詮は一時的な快楽的なものばかり、そこに本当の意味での安心や救いなど見い出せるものではありません。
できれば、これを機縁として、是非、より善くに生きていくためにも、仏教の修習に取り組んで頂けましたら有り難くにぞんじます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
お忙しいなか、回答いただきありがとうございました。
キツい意見を受け止めるのに4年かかってしまいました。