有無同然
仏教用語で、有無同然という言葉があります。私はこの言葉と出会い、いきる意味がわからなくなりました。
なにかを得ようと努力して苦しみ、なにかを得ても苦しむ。だとしたら、なにもしないことが幸せなのでしょうか。夢を追うことに意味はないのでしょうか。
有無同然という言葉には、いずれ死ぬ定め、という考え方があるように思います。死ぬのだから努力してもしなくても変わらない、となると生きることがむなしくなります。みなさんは有無同然を、どのように考えますか?
嫉妬が強いです。あと、罪悪感もよく抱きます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「苦しみ」とは何か。その理解が
こんにちは。いい言葉に出会われましたね。そして、「言葉1つで生きる意味が分からなくなる」事があるのだと、教えてくださり有り難うございます。
さてこの言葉については、前提として「苦しみとは何か」の認識が必要です。仏教ではこれを、大まか「思い通りにならないこと」と捉えていると、私は理解しています。
そうすると、まだ考えようがあると思いますが、如何ですか?
ポッと答えてもらうより、自らあれこれ考えて、「アァそうか!」と得た答えの方が、あなたを支えてくれそうな気がしますので。
追記
「お礼」欄の書き込み、読ませていただきました。貴方なりのご理解を書いてくださったと思いますが、私なりの補足をしてみます。
「なかったら無いなりの苦しみが、そして有るなら有るなりの苦しみがありますよ」よく、お金を例に出されます。「お金を持っていない時は、欲しくて苦しむ。持っている時は、盗まれないかと疑い苦しむ」のように。
「あってもなくても苦しみはある」→次の展開がキーです。
「努力は無駄である」、この展開は無理があります。宝くじで(つまり殆ど努力なく)お金を手に入れたとしても、この苦しみは生じるでしょう。これは「努力を否定した話」ではないと思いますよ。「ある・なし」の変化より、「どちらの状態でも変わらない部分」があることに着目するから「共に苦しみなり」が導かれるではないでしょうか。
「中道」
マリンバ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
佐藤良文様もおっしゃられておられますが、解釈にはそれぞれにて会得したところも大きくなるかとは存じます。
例えば、「有無同然」の別の言い方としましたら、八不としての「不生不滅」、「不常不断」、「不一不異」、「不来不去」や、あるいは「非有非無」など、いわゆる「中道」を示す言葉と同意であると考えることができます。
それは、常住(実体的有)と断滅(実体的無)から離れるというところでもあり、悲観的、虚無的に捉えてしまうものでもありません。
そして、中道の理解のためには、「空と縁起」について会得することも求められるものとなります。
是非、「中道」、「空と縁起」につきましては、龍樹大師の「根本中論」からでも少しずつ学び進められて頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
ただ、有無同然の言葉からすると、思い通りにならず、思い通りにしようと苦しむのが無であり、思い通りになったら、今度は思い通りにし続けようと不安になって、結局苦しんでしまうように思います。