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義父の心ない言葉に心が折れました

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結婚してから今まで義父の心ない言葉に我慢してきました。

妊娠まもないころ「そんな頭ばっかりでかくておかしい子供なんじゃないか、変な子が産まれるんじゃないか」
出産後「まだ歩かないのか?足がおかしいんじゃないか。普通こうだぞ?病気なんじゃないか?」

そして昨日です。
結婚式を挙げることになり、その際の会話です

義父:お前の親父さんは何を着るんだ?
私:私の勝手な希望ですと燕尾服や、モーニングを着て欲しいです。父にはまだそう言った話をしていません。義父が決めてからですよね。義父は?
(両親には相手に合わせると聞いていたので聞き返しました)

義父:背広だな。俺は背広。だからお前の親父は燕尾服とかはダメなんだぞ?
私:はい、わかりました。

(ここでの背広は、礼服のことです。)

続けて
義父:嫁いできたんだからこっちに従わなくちゃいけないんだぞ。お前の親は嫁いできた側に従うんだ、わかるな?
俺がダメだっていったら着れないんだ。はいはいって、聞かなきゃいけねんだぞ?

私は内心、だから聞き返したんだよ。なら何故何着るか聞いたんだ?と思いました。
はいはいって、何様なのでしょうか。

話をきくと、娘が嫁ぐときに娘が和装だったらしく自分も和装?したかったが相手側にNGを出されたらしいです。そのときとても残念な思いをしたとか。
それの当て付けですかね?

さらに続き
義父:お前の親父に、何を着たいのか聞いてみろ?と言うのです。
私は頭にきていたので
:聞いたところで義父が背広と決めているのであれば聞くことはないです。伝えるだけですね
といいました。
義父:俺は背広だがな(笑)
その後は嫁いできたんだから俺たちに従うんだぞと何かと連呼とても不快です。
両親が従うなんてよくも言えたものです
俺たちにあわせてもらう、や、もっと他に言い方があったのでは?と思います。

夫は私のみかたですが 悪気はなくていつも不器用でごめんね と。

あなたに謝ってもらっても嬉しくないし、そもそも 何を着るか ではなく 従うだの云々 が腹立たしくて。
妊娠中から今まで節目ふしめで嫌味をぶつけられ 今後が本当に嫌でしかたがないです。
こんな思いしてなぜ結婚式あげなくてはいけないのか。義父の顔をみたくもないです。

嫁いだら従う その上下関係アピールなんでしょう?育児もてにつかず胸がただ痛いです


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

各ご家庭に存在する天然記念物(人)。

どこの家庭にも表に出せば天然記念物的な人や絶滅危惧種的な人がいるものです。🐻 🐯
その家庭で育った「その人」はその人のルールで生きてきた。
そして、その人があなたの夫の父親であり、今後も「たまーに」かかわっていく人間です。
「珍しい!」と言ってみましょう。
ご家族内ではその人のルールが当たり前。
それによって、あなたのご主人という人格も作られた。
もちろん、ご主人とお父さんは別存在です。
逆にお父さんが、あなたのご実家に単身で嫁入り?すれば、発狂するはずです。
どっちが悪いとか、どっちが正しいということではなく、それを捨てて冷静にみつめてください。
義理のお父さんも人生初めての異文化的コミュニケーションですから、まったく全体的なかかわりが見えてきていないのでしょう。
おそらく、今はみんなが自分と身近なことしか見えていないと思います。
誰でも結婚は初めてのこと。相手は親として子供(夫)の結婚も今回は今回で初めてのこと。あなたとのかかわりも初めてのこと。みんながキャパオーバー的なところがあると思います。
昭和20,30,40,50,60、平成、10,20…、世代によって人間は考え方も言語感覚もまる~で違います。
いずれ夫婦間であっても事実上国際結婚に等しいものを感じる時が来ると思います。
それくらい、自分と他人様とは考え方も食生活も生活習慣も人権意識も言葉遣いも異なるのです。
それがあなたにとっては配慮に欠けた言葉に映ったと思いましょう。
実際に冷たい言葉だったと思います。
ですが、残念なことに、びっくりするぐらいにすさまじい感覚の人間もこの世には存在するのです。誰がその人の人格を形成したのかといえば先代さんや関わってきた人間やその人の人生におけるめぐりあわせなどによるもので、それも「選べない」=生苦なのです。
生の苦を解脱するには、こちら側の願いや求めというものと、現実の世界とはまるで別物であるということを深くみつめ、この自分の願いや求めとはまるで無関係な実世界に対して、自分の想定やファンタジーやマイ理想ストーリーが適応されないことを明らかにしてうえで、自分の願いや求めを押し付けないように慎みの生活を重んじることで、周りが凶暴であっても心静かに生活できるようになります。
仏教的な純白とは「私のルール」を心に持たないことです。
私がお贈りできるお祝いは以上です。✨

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おきもち

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様、返信ありがとうございます。

義父に対し、少し癖のある方と思っていてもやはり言葉は鋭利でとてもえぐられました。私がなにかしたのかと、常々思う日々です。
私の思い、考えと言うのは願いの押し求めなよでしょうか?捉え方が違っていたらすみません。
私のルールとは。。
出来る限り聞き流すことや、こういった方がいると受け止める心構えではありましたがその心を解放すればするほど辛く、苦しかったです。
かといい、義両親は選べないわけで 義父は約70年今の性格や考え方で来ているわけで直してほしいとは思っていません。

私は心が狭いのでしょうか。
丹下様のお言葉、とてもスーッと入ってくるものがあります。私に目線を合わせつつお話しいただいたこと、とても嬉しく思います。

なのに自らも母親となった今、娘のことをいう義父が許せず、自らに のし掛かる言葉を発することも許せず胸が苦しく。今自分自身が何を求めているかもわかりません。

私の両親もいい思い出がありません、義両親にもよい思いがなくわたしは心がいつも一人です。

丹下様のお言葉に近づけるよう、もう一度読み直し考えたいと思います

追記です。
以前、ひなまつりの相談にて回答頂きましてありがとうございました。
無事、娘のひなまつりをお祝いすることができました!

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