疑心暗鬼は仏教的にタブーか?
お忙しいところ、申し訳ありません。
最近は、世の中が不穏な気がします。
前よりも良くなっていることもありますが、自分が騙されやすいということと、自分がポルノ作品を過去に見てしまったこと、そして事件等のせいで、この世の全てを疑わないと生き延びられないように感じるようになってしまいました。さらに、信用するためには、疑わないと真実を見抜くことができないという考えもあるからです。
逆に信じているのは、家族の言葉と、この人間界のシステム(因果応報)です。
しかし、それ以外がもう信じられません。
ですが、どうしても気になることがあります。
仏教では、疑心暗鬼、疑うことは罪にあたりますか?
このせいで、地獄には行きたくありません!
どうか教えてください…!
物欲が強い、意志が弱い、十悪に対する罪悪感が強すぎる
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
怒りは煩悩。怠けも煩悩。愚かさも煩悩。
自分を守るために、他人のことを疑ってしまうということでしょうか?
仏教でいう罪とは、悩み苦しみを増やす行為だと思ってください。
別の言い方をすると、罪とは煩悩を増やす行為、煩悩が働いている状態だと言えます。
煩悩が働いているとき、自分の煩悩のせいで地獄の苦しみを受けることがあるのです。
煩悩の影響が来世まで続けば、来世でも地獄のように苦しむ可能性はあります。
では、人を疑うときに働いている煩悩とは、どんな心持ちでしょうか?
まずは、怒りです。
あくまで疑いの時点、相手が悪いと確定していないんだから、本来は怒る必要はありません。
しかし、勝手に疑って勝手に怒って、自分自身が苦痛を感じます。
次に、怠けです。
ちゃんと調べて確かめたら、疑いは晴れるかもしれません。しかし、いちいちちゃんと確かめるのはめんどくさいという怠けがあるので、とりあえず疑っておけ、となるのです。
次に、愚かさです。
私達が仏様みたいに賢いなら、疑う必要があるかないか瞬時に判断できます。しかし、私達は愚かだから判断できず、とりあえず疑っておけ、となるのです。
怒り、怠け、愚かさに注意して、煩悩を減らすよう意識するだけでも、地獄のような苦しみはかなり減らせるはずです。
仏様の言われたことは真理ですから、真理を疑うことは真理に反する行為を起こし、その報いとして苦しみを生みます。罪という事ではありませんし、地獄に行くという事でもありません。ただ、苦しみを生む、という事です。
しかし、仏様ではない人の言われることは真理とは限りません。ですから、疑うことは間違っていません。その時は、その人が言われることが、仏様の言われたことに合っているか、反しているか、比較してください。
合っていたら信じてもいいし、反していたら信じない方がいいでしょう。