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瞑想での姿勢について

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有り難し有り難し 21

どうもこんばんは。
日曜日に生まれて初めてヴィパッサナー瞑想というのをやってみました。
苦の原因が想像していたものと一緒だったという事で、その確認ができて良かったのです。

今回は禅をご指導されていらっしゃる方に質問が二つあります。
1つ目は客観視をしてみると思ったよりも身体が多数の箇所で『声を出している』事に気づきそれを確認していくと同時進行すぎるために『気づきの処理』がおろそかになるのですが、一つの事だけに集中した方が良いのでしょうか。
例えると、奈良公園で鹿煎餅を持っている手とは別の手で鹿を数えていると、数えている鹿が動き回っていて、更にそれとは別の鹿が寄って来て鹿煎餅を食べようとし、更に別の鹿が背後からタックル(痛み)してきてタックルしている鹿を見た瞬間に鹿せんべいを食べられて、結局数えていた鹿が何匹いるか分からなくなりもう一度数え直す、みたいな感覚です(分かりにくいですが)。要は処理能力超えました。どうすればよいでしょうか。

2つ目が、座布団敷いて畳の上で、座り方もあぐらだったにもかかわらず、足が無茶苦茶痛くなったり、つったり、治ったりだったのですが、これは慣れれば大分ましになるのでしょうか。
また背中がだんだん曲がっていく(猫背)場合、どのように直すように指導していますか(無意識に曲がるため)。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

気づき・観ている自分がおかしいと思えるまで気づく

私もやったことがありますが、だんだん「ん?これ、ちがくね?」と思うようになってしまいました。
禅はそういうワンアクションは不要と説きます。
「手続きがある」「一物がある」「一著あり」と指摘されるところです。
「やっている」うちは「やっている(有為)」なのです。
お釈迦様や道元禅師が毎回そんな気づきを入れていたら私はヒきます。
自転車をこいでいるときに僕はこいでるんだ、こいでるんだなんて、チョイと邪魔ではないでしょうか。
なにごとも指導者が大事です。
今は瞑想の安売りの時代で昨日までなんでもなかったフツーの人が急に瞑想カブレになって「われこそは瞑想の指導者なりー」な人もいます。
副業収入的にやっている人っているのです。
そういうのは医療業界でいうとインチキ医療にあたる場合もあるのです。
何にしても道を得たいと思ったら、その道を極め尽くした人の元で学ぶことです。
別にその指導者がどうこうではありません。
もっと大切なのは、それを学びつつも、真意はどういうことか、これをやることの趣旨は何なのか?を問うことです。
坐禅でも数息観というのをやらせる指導者がいますが、変な指導者に引っ掛かりますと
「坐禅ではなく坐禅の姿勢をさせて数息観をやらせている」のです。意味をご理解いただけますか?
要は羊が一匹、羊が二匹、みたいなことをしているだけだってことです。
お釈迦様みたいな人になっていく瞑想をしてください。
そのためにはその瞑想の指導者もお釈迦様みたいな人であるかどうかの見極めが大事ですよ。
気づきはBEで状態です。DOではない。
聖徳太子は10人の話をいっぺんに聞けたという俗説はまんざらではなく、そこを示した説話でもあるかもしれませんね。私はこれを打ちながら蝉の声があり、子供が哺乳瓶をごんごん床に打ち付ける音を聞きながら、ワイフの皿洗いの音を聞きつつ、そろそろ燃えるゴミ捨てに行こうとしていますが、混乱がありません。
気づきをDOして「気づきを入れない」からです。
ニュアンスが伝わるとよいのですが。
実はヴィパサナ瞑想が目指すところの最上の様子は「気づき」こそが、時として邪魔にもなるというところも知っておくとよいでしょう。
足が痛いのは坐褥(ざにく)という厚手の蒲団を敷くとよいでしょう。
道元禅師は足を痛めないように座物を厚く敷くように説いておられます。

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おきもち

確認

確認ができただけでも良かったのではないでしょうか。
確認、確認、それの繰り返しですね。

ひとつめのご質問ですが、処理能力超えていると気づいたら、そのつど確認していけばよいと思います。「出来る出来ない」というような「課題」として見ません。
混乱するようでしたらひとまず「呼吸」に集中するのが一番シンプルで安心でしょう。

ふたつめのご質問ですが、「慣れれば」だいぶとはいわないまでも、いくらかましになります。
坐禅では「正身端坐」といって、そのなかに姿勢に関するポイントがあると思いますので(『背中』など)どうぞお調べになって参考にしてください。
そのほか姿勢に関しては、バンテ・H・グナラタナ著「気づきの瞑想」が特にわかりやすく、細やかに書かれています(『足の痛み』など)。有名な本ですし、もしお持ちでなければ一読してみてはいかがでしょう。

ただ、ここで回答申し上げてももはやちゃんとした回答になるかわからないので、著名な指導者の方に指示を仰ぐか、いくつかある協会のリトリートに参加されるなどしていただくのが一番だと思います。

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おきもち

吉井浩文
Buddhism. knowing what it actually i...
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質問者からのお礼

>>浩文様
お返事ありがとうございます。
『ヴィパッサナー瞑想は認識しない事』を旨とした瞑想だと言われていました。
もう少し楽なのかと思ったら、背中や足が筋肉痛で今も痛みに耐えています。
確かに、瞑想は実践なので文字での伝え方では、なかなか分からないところがありますね。
実際にここまでひどい筋肉痛になるとは思っていませんでした。

>>丹下覚元様
お返事ありがとうございます。
指導されていた方が仰るには、ヴィパッサナー瞑想は
1.諸法無我であることを体感させる
2.煩悩を発生させない(発生させる余地を作らない)
3.苦であることの気づき
の意味があるとのことでした。
本当は歩きながらやるヴィパッサナー瞑想もあるようですが、時間を取っていたようですが色々とあって結局やりませんでした。
座っての瞑想で普段使わない筋肉を使い筋肉痛になり、更に汗をかいて風邪を引いて今も咳込んでいます。

想像ではヴィパッサナー瞑想で自己を見て苦から脱却するより、周り一切を鏡として自分を投影した方が苦からの脱却が近いような気がしないでもないのですが、まだよくわからないのでヴィパッサナー瞑想を続けていこうかなと思います。

「仏教における瞑想」問答一覧

うつ病の中でも利他の心を持つためには

5年ほど心の病に苦しんでおります。最初は適応障害という診断でしたが症状が悪化し、3年前にうつ病と診断されました。 それでも昨年から始めた漢方の治療やカウンセリング等の効果で体調は良化しており、検査の数値も改善してきています。 しかしながら「ものを考える余裕」が生まれたこともあってか、生き方に対する苦悩は深まるばかりです。 うつ病に向き合う手がかりとして、宗教・哲学・心理学など多くの本に触れているのですが、その多くで「他者に関心を持つこと」「他者と関わること」「他者のためにはたらくこと」が幸せへの道として説かれていました。仏教においても、「利他」は大切な考えだと思います。 しかし、今の私には「他者のためにはたらくこと」はおろか、「他者と関わること」も考えられません。他者とつながりを持つことを恐ろしいと感じてしまいますし、他者のことを考える余力自体も不足しているように思われます。毎日念仏をお唱えするときも、自分の身体のことや心のことばかりを考えてしまいます。 自分でも「利他の心」を持てたらとは思うのですが、負のループに入ってしまっているような気がしております。 勿論、日々の中で「他者を傷つけないように」「他者を不快にさせないように」と心がけているつもりではおりますが、それだけで良いのか、と自問自答してしまいます。 どのような心がけで日々を過ごせば良いのか、ご助言を賜りたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

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瞑想とは

ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 16
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マインドフルネスについて

瞑想を2週間ほど前から朝の日課にしています。欲を少しでも手放せたらと思い、始めました。 そして、昨日仕事中にふっと目の前の仕事に全意識が向いている心地よさを体験しました。これがマインドフルネス?と思いました。15分くらいしか持ちませんでしたが。 どうしても自分で自分を苦しい状態にしてしまうので、どうしたらもう少し楽に生きれるだろうと思い、このマインドフルネス状態が長く続けばいいのでは?と考えています。 そして、大人になると生活の7割くらいが仕事なので、仕事中にマインドフルネス状態が続けば毎日がもう少し楽になると考えました。 しかし、仕事内容が慣れているものであったり、どう進めるか想像つくものであればマインドフルネス状態になりやすいと思ったのですが、仕事内容によっては難問にぶつかったり、やったことないことをやらないといけないことだってあります。クリエイティブ系の職種のため、アイディア出しなどはいつも苦しいんでいます。今思うと、まだこの職種の経験も浅いこともあり、8割ほどの仕事内容にいつも苦しめられています。難問にぶつかった場合もただ難問に向き合うだけでマインドフルネスなのでしょうか。 マインドフルネスについては本などを読んで、自分なりに解釈しているところもあるので間違いがあれば訂正していただきたいです。 仕事中あっちこっち気持ちが散らかるので、マインドフルネスの実践ができたらなと思います。

有り難し有り難し 18
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