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男らしくない自分が気持ち悪すぎて嫌です。

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有り難し有り難し 19

こんにちは。
私は女性、好きな人に対して男らしくありません。
友達として仲良くなることは結構できるのですが、いざ好きな人ができると、本当に女々しくなります。

周りの共通の友達に恋愛相談したり、助けを求めたり、自分からアプローチなんてあんまりしないです。
それで、自分が本当に好きだからではなく、相手が自分のことを好きそうだな っという察しから今後、好きになったり。諦めたりと、なんかこう・・・本当に女々しいです。
気持ち悪すぎて自分が嫌いです。 厳しい説教お願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の事しか無いと苦しい

人間は自分の事しか頭に無いと身を滅ぼします。
相手だ相手だと思っているその相手は自分の思いではないでしょうか。
自分の頭だけを相手にしていて、実際の実物に触れるということをしなくなっているのが問題であると思います。
本当の実際の実物の相手はあなたの想念の中のその人ではないのです。
確かに人間は一生自分の知覚する事しかありません。
ですが、人間は脳裏に事実や相手を取り込んで、その取り込まれた想念上の虚像を相手にするというような事をする。
あなたが陥ってしまうのはそこだと思います。
過去のコミュニケーションを振り返ってみてください。
全部、相手にしていたのが自分の脳内ビジョンであったのではないでしょうか。
その事に気づいたならば、想念と事実とは別物であることを明らかにする必要があるのです。
禅、坐禅とは想念の世界に生きない事です。
人間の多くは思考、思想、想念、主観、観念、思い込み、二次的イメージに生きています。
しかも、それを実物、本物であると錯覚しています。
まずは、その錯覚を取り除いて、実物だけを相手にするという生き方を手にされる事をお勧めします。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
頑張ってみます。

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