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他人に認められないと満足できない

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自分の為すことが他人に認めてもらったり褒めてもらえないと満足できません。自分で「頑張ったな」とか「うまくいったな」と思っても、最終的に誰かに認めてもらえないと本当の満足を得られないと感じます。他人の評価イコール自分自身ではない、自分の人生だから自分がやって楽しく満足ならばそれでいいと頭ではわかっているのですが、未だに克服できません。何か良い考え方はあるでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当の意味で、自分を生きましょう

生活の中心は自分自身です。しかし、他人の心を詮索し顔色を見る癖がついていませんか。
確かに、人に褒められたり認められたと感じれば嬉しいですが、価値観は人それぞれ、同じにする必要はありません。
人の評価が必ずしも良いということでもありません。
ご自分を生きているのですから、ありもしない見えもしない、他人の心を詮索することをやめましょう。

大好きなラーメンを自分が美味しいと思えばそれで満足。人と感覚が違って、人が否定しても、それはそれ。損得、善悪を付け加えないことが大切です。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

評価よりも実をみる

評価というものは何とでも言い得るものなのです。
口のウマい人はそれ以上に褒めます。
おだてたり、あなたが褒められることを喜ぶと知って、沢山ホメる人もいるでしょう。
ですが、それは、いくら耳あたりが良くてもある種ニセの情報。
日本の現在はどうでしょう。
情報は真実でしょうか?
「原発、大丈夫です。安全です。」
それは情報です。
実ではありません。
評価はどこまでいっても、情報です。
情報はどこまでいっても、可変的です。
気分次第で評価が変わるのが人間ですから、人の評価より、実際にそれをやってどれだけの人が喜んでくれたか。そっちの実の方が、評価よりもより確かな事実です。
それでも本当に評価を求めたい時は、ちゃんと目の開いた人からの言葉を重宝するべきであると道元禅師は言っておられます。騙されない人。ごまかしがきかない人の評価こそ真実だからです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

頭でわかってるだけでもかなりマシ

「他人に認められないと満足できない」というのは、大半の人がそうだと思います。
しかし、自分でそのことを理解し、反省できる人は少ないでしょう。
あなたが、「頭ではわかっている」というだけでも、良いことだと思います。
自分の愚かさ、自分の煩悩を反省できる人は、
他人の愚かさ、他人の煩悩を理解し慈しむことができるかもしれません。
プライドの煩悩を、慈悲に変換してみてください。
慈悲のぬくもりは、他人だけでなく自分も癒してくれると思います。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ