他人に認められないと満足できない
自分の為すことが他人に認めてもらったり褒めてもらえないと満足できません。自分で「頑張ったな」とか「うまくいったな」と思っても、最終的に誰かに認めてもらえないと本当の満足を得られないと感じます。他人の評価イコール自分自身ではない、自分の人生だから自分がやって楽しく満足ならばそれでいいと頭ではわかっているのですが、未だに克服できません。何か良い考え方はあるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
本当の意味で、自分を生きましょう
生活の中心は自分自身です。しかし、他人の心を詮索し顔色を見る癖がついていませんか。
確かに、人に褒められたり認められたと感じれば嬉しいですが、価値観は人それぞれ、同じにする必要はありません。
人の評価が必ずしも良いということでもありません。
ご自分を生きているのですから、ありもしない見えもしない、他人の心を詮索することをやめましょう。
大好きなラーメンを自分が美味しいと思えばそれで満足。人と感覚が違って、人が否定しても、それはそれ。損得、善悪を付け加えないことが大切です。
評価よりも実をみる
評価というものは何とでも言い得るものなのです。
口のウマい人はそれ以上に褒めます。
おだてたり、あなたが褒められることを喜ぶと知って、沢山ホメる人もいるでしょう。
ですが、それは、いくら耳あたりが良くてもある種ニセの情報。
日本の現在はどうでしょう。
情報は真実でしょうか?
「原発、大丈夫です。安全です。」
それは情報です。
実ではありません。
評価はどこまでいっても、情報です。
情報はどこまでいっても、可変的です。
気分次第で評価が変わるのが人間ですから、人の評価より、実際にそれをやってどれだけの人が喜んでくれたか。そっちの実の方が、評価よりもより確かな事実です。
それでも本当に評価を求めたい時は、ちゃんと目の開いた人からの言葉を重宝するべきであると道元禅師は言っておられます。騙されない人。ごまかしがきかない人の評価こそ真実だからです。
頭でわかってるだけでもかなりマシ
「他人に認められないと満足できない」というのは、大半の人がそうだと思います。
しかし、自分でそのことを理解し、反省できる人は少ないでしょう。
あなたが、「頭ではわかっている」というだけでも、良いことだと思います。
自分の愚かさ、自分の煩悩を反省できる人は、
他人の愚かさ、他人の煩悩を理解し慈しむことができるかもしれません。
プライドの煩悩を、慈悲に変換してみてください。
慈悲のぬくもりは、他人だけでなく自分も癒してくれると思います。